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「善を持って悪に打ち勝つ」

2021年10月24日 降誕前第9主日礼拝

説教題:「善を持って悪に打ち勝つ」

聖書 : 新約聖書 ローマの信徒への手紙 12章17-21節(292㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 私達は人から精神的にまたは肉体的に傷つけられたりした時、相手が補償するのを当然であると考えるかと思います。実際に法律においても損害賠償というものは認められています。そして、自分が傷つけられたのと同じ程度に相手も傷つけられてほしい、いや相手を傷つけたいと思われる方もいるかもしれません。今の民主的な国家の法律ではそのような考え方は排除されていますが、昔の法律にはそのような考え方が浸透していました。「目には目を歯には歯を」という言葉を多分皆さんは御存知かと思います。これは紀元前1792年から1750年にバビロニアを統治したハンムラビ王が発布した法典に書かれている言葉です。また、律法にも同じ様な事が書かれています。「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。」

レビ記24章19節から20節です。このように昔の法律は復讐を肯定していて随分乱暴だなと思われるかもしれません。しかし、ある意味、この皆さんが乱暴だと思われる法律も処罰を受ける側に配慮をしていました。理由はその当時被害を受けた人が被害を与えた人に同程度よりさらに大きな復讐をしてしまう事があったということです。そう考えると、一見すると乱暴なこの法律も加害者に配慮していると言って良いかもしれません。もちろん、それであっても今の私達の社会で、少なくとも法律でこの「目には目を歯には歯を」という原則は許されていないように思われます。もちろん、人に被害を与えれば、当然ペナルティが課せられるのですが、常に同程度の被害を受けなければならないということではありません。同程度より遥かに少ないペナルティを支払うことで済ませられる場合もあります。それだけ、現代の法律は人権に配慮しているのかもしれません。


 しかし、法律はそうであっても、人の心というものはそうではありません。先程申し上げたように、何かしらの被害を受けた人々は被害を与えた人物に同程度の被害を受けるべきであると思うのが 普通だと思われます。それは昔であろうが、今であろうが変わらない人の心情だと思うのです。しかし、キリスト教はこの考え方を否定します。むしろ、これを越えてしまうのです。

「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行なうように心がけなさい。」本日の聖書箇所であるローマの信徒への手紙12章17節です。後半部分の「すべての人の前で善を行なうよう心がける」事は可能かもしれません。なぜならば、すべての人の前で善を行なうことが出来る事が常に可能かどうかではなく、「心がける」事だからです。しかし、前半部分の「誰に対しても悪に悪を返さず」という事は難しいと思います。例えば、理不尽に近親者を殺人などで奪われたとしたら、その奪った相手に復讐したい、同じ目に合わせたいと思ったとしてもおかしくはないのでしょう。人に騙され財産を奪われたとしたらどうでしょうか?奪い返したいと思ったとしても不思議ではないのです。しかし、キリスト教はこれらの事を否定するのです。

さらに、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」とパウロは言うのです。すべての人と平和に暮らす。理想ではあります。私達も何も好き好んで争い事をしたいとは思いません。しかし、世の中に様々な人々がいます。争い事が好きな人、人から理不尽に物を奪っていく人々です。そういう人々と果たして「平和に暮らしていける」だろうか?もちろん、できればと最初にあるので、絶対すべての人と平和に暮らすことを命じているわけではないかと思うのです。しかし、パウロはローマの信徒の人々にそれを理想の生活として示しています。19節では復讐を禁じ、神に復讐することを委ねよと言い、20節ではさらに自分の敵に食べさせ、飲ませよとまで言いました。まさに、世の中の考え方からすると考えられないと思うのです。何か自分に不利益な事をされたとします。自分や、自分の肉親を傷つけられる、殺されたとしましょう。その人は当然相手に復讐をしようとしますが、その復讐を禁じられるばかりでなく、さらに復讐すべき相手に親切にしなさいとまで言われるのです。この「復讐してはならない。敵を愛せよ。」という姿勢はパウロがこの手紙でローマの信徒に対して命じる前に主イエスが山上の説教で示されています。マタイによる福音書5章38節から48節に書かれています。今でこそ、先進国では加害者の人権が考慮されていますが、主イエスが生きておられた時代はそういった事は考慮されていませんでした。復讐するのは当たり前、敵を憎み、滅ぼすのは当たり前の事だったのです。その時代にそれとは真逆の事を主イエスは言われたのです。今の時代であっても敵を愛し、親切にするということは難しい事です。   


 しかし、それをしないと平和には近づかないと考えるのです。例えば、アメリカには未だに人種問題があります。最近では新型コロナウィルスを中国人が広めたということで、アジア人に対する嫌がらせや暴力事件がありました。もちろん、こういった行為を止めるようにアメリカ政府や警察が動くことは必要です。しかし、もしアジア人のコミュニティが復讐のために銃で武装したらどうなるのでしょうか?そこに平和はないのです。さらに、アメリカでは警察がアフリカ系アメリカ人に対して過度な暴力をすることが問題になりました。その事に対してデモも起こりました。もちろん、このような警察のアフリカ系アメリカ人に対する暴力行為はずっと続いてきていることですし、やめさせるべきだと考えます。しかし、デモもまた暴力的であってはならないと考えます。

以前にもお話したかと思いますが、アメリカでは1992年にロサンゼルス暴動という事がありました。それはロドニー・キング事件が発端だと言われています。ロドニー・キングというアフリカ系アメリカ人の方が飲酒運転で警察に逮捕されたのですが、その時数人の警察官が彼に手錠を掛け、警棒で殴り続けました。その状況をある人がビデオで撮影したのですが、撮影したビデオテープをテレビ局が放映し、事件が発覚しました。暴行をした警察官達は逮捕され、起訴され、裁判にかけられましたが、無罪になりました。その事がアフリカ系アメリカ人の怒りに火をつけ、ロサンゼルス暴動へと発展しました。暴行、略奪、銃撃、火災などが数多くあり、彼らのターゲットは白人のみならず、ヒスパニック系の人々やアジア系の人々にも向かいました。アメリカ政府が非常事態宣言を発令し、州兵を派遣し、最終的に治安の維持を武力で取り戻しましたが、58名の死亡者、負傷者2,383人、逮捕者1万1000人以上になったということです。

 白人警官のアフリカ系アメリカ人に対しての過度の暴力から暴動という暴力の連鎖です。しかし、これがこの世の考え方の一部なのです。怒りと復讐があります。そうしたこの世の考え方に対してNoと言っているのがキリスト教なのです。主イエスは十字架に掛けられる時、彼を死に追いやった人々の罪の赦しを父なる神に願いました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23章34節)

また、その後、主イエスの弟子であるステファノもまた石を投げつけられ殉教しますが、その時彼も彼に対して石を投げつけている人々の罪の赦しを主イエスに願いました。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」(使徒言行録7章60節)これがステファノの最後の言葉でした。主イエスもステファノも今自分を殺そうとしている人のためのとりなしの祈りをしたのです。なかなか出来ることではありません。しかし、私達は本日の聖書箇所で示されているように復讐をしないということ、敵に親切にするということを難しいながらもしていかないとロサンゼルス暴動に見られるこの世の価値観に染まってしまうのです。もちろん、このキリスト者の価値観を実践することは難しいです。私達自身の力では出来ません。ですから、聖霊に働いてもらうのです。そうすることで、私達はキリストに似たものとされていくのではないでしょうか?



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