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「執り成しの祈り」

2022年5月22日 復活節第6主日

説教題:「執り成しの祈り」

聖書 : 旧約聖書 創世記 18章23-33節(24㌻)

​   新約聖書 使徒言行録 7章60節(227㌻)

​        ルカによる福音書 23章34節(158㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 「祈り」は聖書を読む事、賛美をする事、説教を聞く事、祈祷会に参加する事、奉仕をする事、証をする事、伝道をする事などと同様に私達キリスト者にとって重要な事であることは皆さん良くおわかりかと思います。今日の礼拝でも主の祈りがあり、ウクライナ・ロシアの平和のための祈りがあり、司式者の祈りがありました。また、私のこの説教の後に祈りますし、献金の後、献金の奉仕をされる方が祈ります。この礼拝で5回の祈りが捧げられるということです。また、祈祷会で今「マルコによる福音書」を学んでいるのですが、その学びの初めに開会祈祷をし、最後に閉会祈祷をするのですが、その閉会祈祷の前に私達は祈祷課題を挙げ、そのために祈ります。いかに「祈り」が大切な物かということがこれでおわかりかと思います。


 「祈り」は重要で大切な物であるのですが、祈りには様々な物があります。やはり、最近では「新型コロナウィルスの終息もしくは状況の改善」、「ウクライナでの戦争の終結と平和の回復」ではないでしょうか?ですが、本日取り上げるのは「執り成しの祈り」です。  


 私達はこの「執り成しの祈り」というものを、あまりしてこなかったのではないかと感じています。なぜでしょうか?多分私達の中で「祈り」という物を固定したイメージで捉えてしまっているのかもしれません。例えば、苦難に遭っている人々のために祈ります。その「苦難」というものは様々です。病気、経済的困難、戦争、人間関係でのトラブル、精神的な事などです。私達はその「苦難」が取り除かれるよう祈ります。もっとも、その苦難に遭っている人々の中に私達自身が含まれることもあります。また、何か目的があり、それを遂行するために必要な物(経済的な物や人材)を与えていただくよう祈ることもあります。


 つまり私達は祈りとはこの様な物なのだというイメージを持ってしまっているので、この「執り成し」ということが祈りの範疇(はんちゅう)に含まれるということに思いが至らないのかもしれません。もっと言うならば、他人のために執り成しの祈りをするという事は苦難に遭っている他人のために祈る事よりもより積極的に他人に関わる事ではないかと思うのです。


 ですから、私達は自分たちの利益のために、もしくは他人の利益のために祈りますが、あえて他人に積極的に関わりを持つようなことをしたくないので、この「執り成し」の祈りをしてこなかったのかもしれません。また、私達は「罪に対しては一定の罰が必要である」という考えを持っています。この考えでいくと「執り成し」という考えはあまりそぐわないのではないかと思うのです。もちろん、裁判所における「弁護士」のイメージを私達は持っているのですが。さらに言うならば、「私達は人を執り成すような上等な人間だろうか」という考えを私達は持ってしまっているのかもしれません。「わたしたちはそんな上等な人間じゃない。だからそんな人を執り成すなんていうかっこつけたことは止めておこう。」という考えを持ってしまうのではないでしょうか?


 ですが、聖書ではこの「執り成しの祈り」をしてきた人物がいます。本日の第一の聖書箇所に出てくるアブラハムを見ていくことにしましょう。アブラハムは創世記18章23節から25節でこう言うのです。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」


 本日の聖書箇所の前で主がソドムとゴモラの罪があまりに酷(ひど)いという訴えがあるので確かめて見ようと言ったからです。そこには直接に書かれていませんが、もし事実そうであるならば、町を滅ぼそうということだったと思われます。これを受けてのアブラハムの発言でした。アブラハムは執り成しの祈りをしました。内容は善人が悪人と同じ町に住んでいるからといって悪人もろとも善人を滅ぼすのは正義ではないから、もし善人が五十人その町にいるのなら、町全体を見逃してほしいということでした。

ソドムとゴモラという町は聖書では有名な背徳の町として知られています。創世記に出てきた人々が世界に散らされないように、さらに天にまで達せさせようとして建てようとしたバベルの塔、ヨナが宣教するよう主なる神から命じられ、最初は断ったアッシリア帝国の都のニネベ、そしてヨハネ黙示録に登場するバビロンと言ったところでしょうか。


 先程も言ったのですが、アブラハムの理屈はこうです。悪人が滅びるのは当然である。しかし、そのせいで善人も一緒に滅びるのは正しくない。神は正義の方である。ですから、正義である神はその善人のゆえに町全体を見逃してくださいということです。もちろん、この理屈で言えば、悪人を見逃すことになってしまうのですが、それでもこれがアブラハムの正義です。

そして、神はこのアブラハムの正義を受け入れました。

「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」(26節)

多分、アブラハムも町の悪い評判を聞いていたと思うのです。ですから、「そんな町、神に滅ぼされてもしょうがないじゃないか。私はそこに住んでいないから私には関係ない。」と考えても不思議ではありません。しかし、アブラハムはそのように考えなかったのです。もちろん、彼の身内であるロトの家族がソドムに住んでいたことも多少は影響したと思うのですが。

さらに、アブラハムはその町に住んでいる善人が五十人に満たず五人少ない四十五人かもしれませんが、町を滅ぼさないよう神に願い出て、神はその申し出を了承いたします。

アブラハムは続けて善人の数を「三十人」、「二十人」、「十人」と減らしていきますが、何れの時も神はその町を滅ぼさないと約束しました。ここまで、他人のためにしかも多くは罪人のために神に執り成すことは素晴らしいことだと思います。果たして私達に出来ることでしょうか。アブラハムはソドムに住んでいる罪人の罪を神に執り成す事で積極的に彼らの人生に関わり合いを持ちました。果たして私達はアブラハムのように罪人の人生に積極的に関わり合いを持とうとするでしょうか?むしろそういう人達から離れていこうとするのではないでしょうか?関わりを持ちたくないというのが本音ではないでしょうか?

ファリサイ派の人々や律法学者達は主イエスが罪人や取税人と食事を共にしたりして、積極的に交わっていた事を非難しました。それとどこか似てはいませんか?


 結果として、ソドムの町は神によって滅ぼされました。詳細は創世記19章1節から29節に書かれています。神の二人の御使いが町に入り、ロトの家に宿泊していた時、町の住民たちが彼の家に押し寄せ、彼らに対して酷いことをしようとしました。この二人はロトの家族を連れて町から逃げ、神は町を滅ぼされました。助かったのはロトの嫁を除いたロトの家族だけでした。ロトの嫁は逃げる時、後ろを振り返ってはならないという御使いの警告に反して振り返ったため、塩の柱になってしまいました。

ですが、このアブラハムの「執り成しの祈り」を私達は心に留めないといけません。


 次は使徒言行録7章60節に書かれているステファノの執り成しの祈りです。彼は誰の罪を執り成していたのでしょうか?驚くことに自分を殺そうとした人達でした。今、正に石を投げつけられ、殺されようとしているにも関わらず、投げつけている人たちの罪の執り成しをしていたのです。果たして、私達に出来ることでしょうか?なぜステファノがこのような目に遭ったのかということは少し長いのですが、使徒言行録6章8節から7章59節に書かれていますので、時間のある時に読んでおいたほうが良いかもしれません。

ステファノは説教でユダヤ人達の先祖たちが神と聖霊に逆らってきたこと、預言者達を迫害してきたこと、そして今も神と聖霊に逆らっていることを指摘して、彼らを怒らせ、殺されてしまいました。しかし、ステファノは彼らの罪の執り成しの祈りを捧げました。これはなかなか出来るものではありません。先程のアブラハムの執り成しの祈りよりもハードルが高いです。なぜなら、アブラハムは自分を殺そうとしている人の執り成しをしたわけではないからです。しかし、ステファノはそれをしました。

主イエス・キリストに倣ったと言えるのではないでしょうか?

主イエスもまた自分を十字架上で殺そうとしていた人たちのために執り成しの祈りをしたのです。本日の最後の聖書箇所ルカによる 福音書23章34節です。そういう意味において、ステファノは本当に最後まで、つまり自分の死に至るまでキリスト者(キリストに倣う者)であったと思います。最近私達の兄弟が召天されました。その時、奥様から聞いた話では、その方は「神様には御計画があるのだから」と言われたそうです。その方もやはりこのステファノと同様に最後まで、自分の死に至るまでキリスト者、キリストに倣う者であったということを確信いたします。


 さて、私達もまたキリスト者としてこの執り成しの祈りをするように主から求められていると思います。なぜなら、以前の説教で私はこのように言いました。キリストは祭司であり、キリストに倣う私達もまた祭司である。祭司の役割は「執り成し」をする事です。もしかすると、私達はアブラハム、ステファノ、そして主イエス・キリストのような偉大な、立派な人間ではないから無理だと考えているかもしれません。ですが、それは間違いです。私達個人が立派かそうでないかではないのです。すべては神の恵み、聖霊によるものなのです。ですから、私達もまたこの祈りが出来ると考えます。またそのように神から求められているのです。


 以前にも述べたと思いますが、なかなか出来るものではありません。例えば、人から酷い目に遭わされた時、その酷い目に遭わされた人物はその人を呪ってもおかしくはありません。日本の歴史を見てみても、よくその手の呪い話があります。ですが、「人を呪わば穴2つ」というように、人を呪えば自分にもその呪いが帰ってくるので、そういう事をしないようにしようという考え方があります。しかし、主イエス・キリストと彼の弟子ステファノの行為はこのような保身的な、消極的な動機からのものではないのです。より積極的なものです。自分たちを今、正に殺そうとしている人たちの執り成しの祈りをしたのです。ここに神の愛があるのです。皆さんは誰を執り成そうと考えますか?

例えばロシアの兵隊のために私達は神に執り成しの祈りを捧げることが出来るでしょうか?もちろん、ロシアのウクライナへの侵攻は非難すべきですし、ロシア兵の蛮行が事実であれば、その罪は償わなければならないと思います。そしてこの戦闘の即時停止と平和の回復を願い、神に祈ることに変わりはありません。

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