「天国に市民権を持つ者」
2022年10月16日 聖霊降臨節第20主日礼拝
説教題:「天国に市民権を持つ者」
聖書 : 旧約聖書 イザヤ書 25章1節-9節(1097㌻)
新約聖書 ヨハネの黙示録 7章9-12節(460㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
さて、市民権という言葉は私たちにとってどういう意味を持つのでしょうか?日本人がこの日本に住んでいるとあまり意識しないのではないかと思います。ですが、私たちが海外旅行に行く、さらに言うならば、海外に長く滞在するときには意識すると思います。例えば、私たちは日本で旅行するときには必要ありませんが、海外旅行に行くときにパスポートやビザを持たなければなりません。そのために必要な書類を揃えなければなりません。
パスポートを取得するにはそれ程煩雑な手続きはないのですが、ビザを取るには大変です。私はアメリカに留学していたのですが、ビザを取るにはすごく煩雑な手続きをしなければならず、業者さんにある程度おまかせしたのですが、アメリカ大使館に行き、並んで手続きをしなければなりませんでした。当たり前かもしれませんが、そこは日本であって日本ではありません。銃で武装したアメリカ軍人が警備しており、随分と威圧感といいますか、
圧迫感を感じた覚えがあります。
そして、留学の準備が整い、飛行機がアメリカに着きましたが、所持品検査と入国審査がありました。所持品検査は飛行機に搭乗した人々全員が等しく受けるのですが、入国審査ではアメリカ人とそれ以外の人々に分けられました。そしてアメリカ人の方々は比較的スムーズに通されるのですが、それ以外の人々、私も含めてなのですがなかなか通されません。すごく時間がかかるのです。
私の場合、その後、アメリカの国内で別の飛行機に乗り継がなければいけなかったので、かなりいらいらしました。実際、乗る予定だった便に乗れず、次の便に乗らなければいけない事もありました。
私はアメリカの市民権を持っていませんので、このような経験をしたとしても仕方ないと思いますし、また日本国籍を持っていない方々が日本に来られても多分同じような経験をしていると思いますので、受け入れなければいけないと思っています。
しかし、頭では理解していても、心では納得していないのもまた事実です。そして大学、神学校に留学していた時、私は良い経験をさせていただきました。それは周りの方々、先生達、学校のスタッフの方々に私を含めた留学生の人たちを様々な面で助けていただいたからです。もちろん、これは留学生を特別扱いしたわけではないのですが。学校の方々だけでなく、周りの人々例えばスーパーの店員さん、床屋の理容師さん、雑貨屋や料理店の店員さんもまた気のいい方々ばかりでしたので、私は比較的気持ち良く、外国生活を過ごすことができました。
しかし、やはり違うのです。どんなに良く周りの人達にしていただいたとしても、私にとっての故郷は日本であり、日本国籍を持っていて、アメリカの市民権は持っていないのです。もちろん、市民権を持っていたとしても、この違和感は残るかもしれませんが、市民権がないということは私に彼の地では異邦人であるということを意識させたのです。
本日の最初の聖書箇所では主による統治の事が語られています。
もう何度か申し上げてきましたが、ユダヤ人は何度も迫害されてきました。エジプトで(出エジプト記)、カナンの地で(士師記)。そしてイスラエル国はアッシリアによって滅ぼされ、ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされ、住民はバビロンに連れてゆかれました。いわゆるバビロン捕囚と言われる事です。
連れて行かれた彼らは本当に惨めな思いをしたと思うのです。
なぜなら、彼らは戦いに敗れた民として連れて行かれたからです。
バビロンに元々住んでいた人たちからは馬鹿にされ、酷い扱いを受けたことでしょう。彼らが受けてきた事は私が外国で感じた違和感などとは比べ物にならないものです。
しかし、この聖書箇所では主による彼らの国の回復と統治が語られています。まず、この著者は主に感謝します。そして、主による偉大な計画の事を語ります。現状の彼らの奴隷状態の事を見ていないのです。市民権のない不安な状態を見てないのです。
「…異邦人の館を都から取り去られた。永久に都が建て直されることはないであろう。それゆえ、強い民もあなたを敬い 暴虐な国々の都でも人々はあなたを恐れる。」(イザヤ書25章2節から3節)
は主が国々を超えて総べ治めることを表します。
「まことに、あなたは弱い者の砦 苦難に遭う貧しい者の砦 豪雨を逃れる避け所 暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨 乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように 異邦人の騒ぎを鎮め 暴虐な者たちの歌声を低くされる。」
(イザヤ書25章4節から5節)
ここで著者は主のご性質と御力について述べています。弱いものを守り暴虐なものを打ち砕く方、正義の方であることを述べています。
ユダヤ人たちはバビロンに捕囚された時、主から「その地で生きなさい。その地の住民の幸福を祈りなさい。」と言われました。
故郷で生きることができない、奴隷状態でしかも捕囚を行った人々のために祈ることがどれほどの苦痛であったのかは想像できません。しかし、彼らはそこで、つまりバビロンでの市民権を求めてはいませんでした。やがて主は彼らを顧みて彼らの故郷にお戻しになられることを信じていたのです。だからこそこの著者はこのように言うのです。
「…御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。」(イザヤ書25章8節)
つまり、ユダヤ人たちは故郷に帰り、彼らの市民権を再獲得するということを主は約束され、その約束をこの著者は信じているということです。後に、バビロニアはペルシャによって滅ぼされ、彼らは故郷に戻ることができました。市民権を再獲得することができたのです。その市民権の獲得のためには何が必要だったのでしょうか?
まず、ユダヤ人であるということでした。ですが、これは外面的なことであると考えます。内面的には主を褒め称え、主に感謝し、主に信頼することです。この内面的な部分が大切です。
さらに、イザヤ書の著者がただ単に主によるユダヤ人の故郷の回復だけを言っているのではないのではないかと私は考えるのです。
「主はこの山で すべての民の顔を包んでいた布と すべての国を覆っていた布を滅ぼし 死を永久に滅ぼしてくださる。」(イザヤ書25章7節から8節)
この文言からは単なるユダヤ人の故郷の回復以上の事が述べられています。
「顔を包んでいた布 すべての国を覆っていた布」とはモーセの顔の覆いの喩えだと考えられます。出エジプトの34章29節から35節に書かれています。モーセは主とシナイ山で主と語り合って、十戒の石版を受け取って、山を降り、人々の所に帰ってきた時、顔が光っていたそうです。これは主の威光で光っていたと考えるのですが、彼はその顔に覆いをかけました。
しかし、パウロは主イエス・キリストにあってその顔覆いは取り除かれるべきであると言っているのです。
これはⅡコリントの信徒への手紙3章12節から18節に書かれています。つまり、ここで述べられているのはモーセの顔覆いとは律法の事であり、古い契約であります。そして主つまり父なる神と私たちを隔てる物です。しかし、主イエス・キリストにあってその顔覆いは取り除かれ、主と私たちとの間を隔てる物は取り除かれたのです。主イエスが十字架の上で亡くなられた時、神殿の幕が裂けた場面を思い出してください。マタイによる福音書27章51節です。これは神と私たちとを隔てる物が主イエス・キリストによって取り除かれたことを意味するのではないでしょうか。
さらに、「死を永久に滅ぼしてくださる。」とは主イエスの十字架上での死とその後の復活によって私たちの罪を贖い、死を滅ぼしたことを意味するのではないでしょうか。
ですから、これはただ単にユダヤ人の故郷の回復というだけでなく、主イエスの十字架上での死と復活による私たちの罪の贖いと復活、天国へ入ることを意味しています。先程、私はユダヤ人が故郷での市民権を再獲得するための条件として外面的にはユダヤ人であること、内面的には主を賛美し、主に感謝し、主に信頼し、主に従うことだと言いました。
では、私たちが天国の市民権を獲得するにはどうすべきでしょうか?それは主イエス・キリストを信じることです。そして、この内面部分だけでいいのです。ユダヤ人であるとかないとか関係ないのです。パウロはこの内面の事を強調しています。
「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」
(ローマの信徒への手紙2章28節から29節)
この事の証明が本日の第2の聖書箇所です。
「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。』」(ヨハネの黙示録7章9節から10節)
彼らこそが内面がユダヤ人であるユダヤ人であります。なぜならば、彼らは主イエス・キリストを信じ、父なる神を信じたからです。そして私たちもまた彼らの一員なのです。
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