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「天国に市民権を持つ者」

2024年10月20日 聖霊降臨節第23主日

説教題:「天国に市民権を持つ者」

聖書 : エレミヤ書 29章10節-14節(1230㌻)​​​​

​   フィリピの信徒への手紙 3章10節-21節(365㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 私達のほとんどは日本国籍を持っていて、日本に住んでいます。ですので私達は基本的に安心して日本で生活できます。ですが、私達が外国に行く、それが例えば短い旅行であったとしても不安になります。それは言葉の違い、習慣の違いもあるとは思いますが、やはりその国の人と同等の権利を持っていないというのも原因かと思います。この事を私が一番感じる時は外国の空港での入国審査です。何度かアメリカに行ったことがあるのですが、空港でアメリカ人と外国人に分けられ、入国審査が行われます。私の個人的な印象ですが、やはりアメリカ人に対する入国審査は簡単で、私を含め外国人に対する入国審査は厳しく感じます。もっともそれは昨今のテロなどがある状況を考えてみると仕方の無いことかもしれません。また逆に外国人が日本に入る時もまた同じように日本人と外国人に分けられたうえで入国審査が行われ、日本人が比較的スムースに審査をパスするということも考えるとお互い様ということかもしれません。

 ですが、その国の市民権を持たない外国人がその国で弱い立場であり、そのことで彼らが不安であるということもまた事実です。これは昔からある問題でもあります。レビ記で出てくる律法を見てみましょう。その中でこのような文言があります。      

「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」            

(レビ記19章33節から34節)

 これは主の導きによってイスラエル人が奴隷状態であったエジプトから解放された時に与えられた律法です。このことからもおわかりになるように人が外国に住むということは弱い立場になってしまうということが昔からあったということです。だからこそ主はこのような律法をイスラエル人に与え、弱い立場の人を守ろうとしたのですね。


 さて本日の第一の聖書箇所です。「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」(エレミヤ書29章10節)                         

どういうことでしょうか。イスラエル人は主に反逆し続けたため、主のご計画によってイスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされました。そしてユダヤ王国はバビロニア王国によって滅ぼされました。そして多くの人々はバビロンやその他の地域に捕囚として連れて行かれました。さて連れて行かれた人々はどういう状態であったでしょうか?

 先ほど私は人が外国に住む時に不安があることをお話しました。今、例えば私が外国に数日間旅行するのにも不安があります。昔は今と違って人権などは軽視されます。ましてや彼らは普通に外国に寄留者として住むというわけではありませんでした。市民権も国籍もありません。正当な権利などはありません。囚われの身として外国に住むのです。不安でないはずはありません。実際に蔑(さげす)まれ、馬鹿にされ生きざるをえなかったのです。彼らの心に平和はありませんでした。その事を表しているのが哀歌やエステル記です。お時間のある時に読んでみると良いでしょう。

 ですが、主は預言者エレミヤの口を通して幸いなご計画を彼らに明らかにします。七十年後に彼らを故郷に戻すと約束されました。主は平和の計画を立てていると次の11節で仰っています。更に次の12節、13節では彼らの主に対する姿勢と主の応答が書かれています。

「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く」(12節)

「わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、」

(13節から14節)

 ここに注目です。これは今の私たちにも求められているからです。

 14節でさらに主は彼らを追いやった様々な地域から彼らを故郷に戻すと仰っています。不安な状態から安定した平和な状態に回復させてくださると仰っているのです。実際にペルシャの王キュロスによってその事は成就します。その事はエズラ記そしてネヘミヤ記に書かれています。自分の故郷に帰り、生活することほど安心できることは無いと思うのです。彼らは市民権をそこでは持っているからです。イスラエル人にとってエルサレムがあるユダヤの地、カナン地方は天国のようなところであったことでしょう。

 本日の第2の聖書箇所です。使徒パウロがフィリピの信徒へ書いた手紙です。彼はこう言っています。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピの信徒への手紙3章10節から11節)

 彼はキリスト・イエスにあって死者の中から復活したいと言っています。主イエスが復活なさいましたから、主イエスに属するパウロもまた死者の中から復活したいという希望を持って歩もうとするのは当然です。

 それはどういうことか?次に彼はこの地上においてキリスト者がどういうふうに歩むべきかを話しています。それは主イエス・キリストを捕らえようとすることではないでしょうか?このように言うと何か自分の努力で何かが出来ると言っているように聞こえますが、そうではなく、そのような思いを持つこと、そのような姿勢を持ち続け、歩む事が必要です。それが12節から16節に書かれていることです。本日の第1の聖書箇所を思い出してください。   

「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしを尋ね求めるなら、心を尽くして、わたしを求めるなら」とありましたね。ここにはこのパウロの自分から動くという姿勢が見えます。

 では何をパウロは目指しているのでしょうか?小見出しにこのように書かれていますね。「目標を目指して」と。    

「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピの信徒への手紙3章14節)              

それは最終的には死者からの復活をし、天国に行くことです。

「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピの信徒への手紙3章20節)

 本日の第1の聖書箇所でイスラエル人が求めていたものは何だったのでしょうか?故郷に帰ることです。故郷に帰り、不安なく生活できることです。そして主はそれを与えると約束されました。もちろん、彼らに対して主を求めること、真摯(しんし)に求めることを要求されました。しかし、パウロ自身が望み、彼がフィリピの信徒に望むよう促し、そしてひいては今を生きる私たちに望むよう促しているのはなんでしょうか?それはイスラエル人が求めたような平安を与える故郷ではありません。さらに勝った平安を与える故郷の天の御国です。そのためにわたしたちはこの地上で生きる間にキリストを捕らえるように求められています。

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