「失われたものを捜し求める」
2020年10月11日 10月第2主日礼拝
説教題:「失われたものを捜し求める」
聖書 : 旧約聖書 エゼキエル書 34章16節(1352㌻)
新約聖書 ルカによる福音書 19章1-10節(146㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
聖書には「失われたものを捜し求める」物語がよく出てきます。百匹の羊を飼っている人が見失った一匹の羊を捜すために他の見失っていない99匹の羊を残して出かける物語 (ルカ15:4-6)、銀貨10枚を持っている女性がその中の1枚を失くし、その1枚を見つけるために家中を隈なく捜す物語 (ルカ 15:8-9)、そして放蕩息子の物語 (ルカ15:11-32)です。私はよく物を失くしますのでこの中の2番目の物語である銀貨10枚を持つ女性が失くした1枚を見つけるために必死に捜す物語に共感します。私も物を失くした時は必死で捜しますが、なかなか見つからず、諦めてしまい、数日後にこの失くした物がひょっこり出てくるといった事がよくあります。見つかるまで必死に捜し回るこの女性を見習わなくてはならないと思います。
本日の最初の聖書箇所エゼキエル書34:16に出てくる「失われたもの」は羊です。しかし、この羊はたとえとして人間を示しています。エゼキエル書34章全体を見ればもう少し全体像が見えてくるのですが、この預言者エゼキエルが伝道をしていた時代、彼の住んでいたユダ王国で人々は主なる神から離れて他の神を崇めていました。偶像崇拝です。国内は不正がはびこり、王や諸侯などの国の指導者、祭司や預言者などの宗教指導者もまた偶像崇拝と不正をしており、国民を神に導くことをしていませんでした。ですから、主は預言者エゼキエルに指導者たちにこう語るよう言われました。「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。」 (エゼキエル34:2-4) ユダ王国の国民は神の目線から見れば 「失われた」状態にあったのです。やがて、このユダ王国は紀元前538年に新バビロニア王国の王ネブカドレツァル二世に滅ぼされ、人々はバビロンに移住させられます。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。やがて、このバビロン捕囚も終わりを告げます。紀元前537年、ペルシャの王キュロス二世が囚われていたユダヤ人たちの祖国への帰還を許したからです。このバビロン捕囚と捕囚からの解放は歴史的事実ではありますが、そこに神のご意志とそのご意志に基づいたご計画があったことは聖書が語っています。エレミヤ書25章8節から9節にこのように書かれています。「それゆえ、万軍の主はこう言われる。お前たちがわたしの言葉に聞き従わなかったので、見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃墟となる」またイザヤ書44章28節にはこう書かれています。「キュロスに向かって、わたしの牧者、わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い、神殿には基が置かれる、と言う。」失われた民が神によって探し求められ、見出され、再建される過程がここにあります。それは神のご意志であり、ご計画であります。ですから神はこう言われるのです。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」(エゼキエル34:16)
この神の言葉はこの事つまり、ユダ王国の滅亡、バビロン捕囚、捕囚からの解放と再建だけに止まりません。本日の第2の聖書箇所です。主イエスが生きておられた時代ユダヤ人が住んでいた地域はローマ帝国に支配されておりました。その中で、政治的指導者であるヘロデ王、宗教指導者であるファリサイ派、サドカイ派、律法学者によって支配されていました。そうした支配構造の中で人々は暮らしており、彼らは暗鬱として暮らしていたと考えられます。彼らは失われた状態であったのです。そしてこの聖書箇所に出てくるザアカイはこの失われた人々の中でもさらに失われた人であったと言えます。彼は徴税人でした。お金は持っていましたが、人々から嫌われていました。以前、徴税人マタイの所でお話ししたのですが、徴税人はローマ帝国から税の徴収を委託されており、同胞のユダヤ人から税を徴収し、不正をし、より多く徴収する者もいたとのことです。ザアカイはお金を持っているが、同胞のユダヤ人から嫌われ、孤立していた。失われた存在でした。そのザアカイが主イエスをひとめ見ようとイチジクの桑の木に登るのですが、そのザアカイに主イエスは声をかけます。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(ルカ19:5)
ザアカイは喜んで主イエスを迎え入れ、財産の半分を貧しい人々に施し、騙し取っていたらその人にそれを4倍にして返すことを申し出ます。(ルカ 19:6,8)
主イエスは失われた者たちの中のさらに失われた者であるザアカイの所へ訪れました。それはユダ王国で主なる神から離れ、バビロンに捕囚された人々を神が訪れ、解放したことと同じです。ザアカイは主イエスを喜んで受け入れ、財産の半分を貧しい人々に施すことと、騙し取ったことに対する4倍の支払いをイエスの前で約束しました。これはザアカイの悔い改めです。だからこそ、主イエスはこのように言われたのではないでしょうか。
「今日、 救いがこの家を訪れた。」(ルカ19:9)そして、さらに、こうも言われました。
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:10)
この浦和教会もまたこの「失われたもの」であったのではないでしょうか?暫くの間、牧師が不在ということであったので不安であったかと思います。しかし、今日のように、新しい会堂が与えられ、この前は献堂式を行うことができました。神が失われたものを捜し、救われていると思います。まだ、やらなければいけないことはありますが、神が助けてくださると信じております。
Comments