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「子供たちへの祝福」

2021年6月13日 聖霊降臨節第4主日礼拝 (こどもの日、花の日)

説教題:「子供たちへの祝福」

聖書 : 新約聖書 マルコによる福音書 10章13-16節 (81㌻)

        マタイによる福音書 18章1-5節 (34㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 本日6月13日は花の日そして子供の日です。もちろん、これはアメリカでの話であって、日本で花の日と言えば8月7日そして子供の日と言えば5月5日を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。ですが、このアメリカの6月13日の花の日そして子供の日は私達プロテスタントの教会に関係があるのです。アメリカのプロテスタント教会の牧師であったチャールズ・H・レナード牧師が1856年の6月のとある日曜日に献児式や幼児祝福式といった子供の日の礼拝を始めたのが始まりです。またこの時期に夏の花も咲き始め様々な花に関するイベントも行われることから子供の日と花の日を一緒に祝うようになったということです。アメリカにあるメソジスト教会では6月の第二日曜日を子供の日、花の日として祝い、教会を花で飾り礼拝し、その花を持って病人などをお見舞いするそうです。この講壇の横にもすばらしい花が置かれています。感謝です。そして、私が以前在籍していた教会でも教会員達が教会を花で飾り、教会学校の生徒さん達、そして先生達と一緒に警察署、消防署、そして老人ホームにお花を届け、賛美歌を歌うということを毎年しておりました。私にとっては懐かしい思い出です。しかし、今、私達の教会には子供たちはおりませんので、教会学校もありません。また、たとえ子供たちが多くいたとしても、このコロナ禍の中で教会学校を行うことや訪問をしてもよいのかという議論もあるでしょう。実際、教団の関東地区もしくは全国の子供たちのキャンプは集まることが出来ず、オンラインです。ですが、いつか、新型コロナウィルスが収束し、私達の教会でも子供たちが集まり、教会学校が開かれ、この子供の日に子供たちと一緒に何か出来ればと私個人では考えております。


 さて、聖書では子供についてどのように書かれているでしょうか?本日の最初の聖書箇所マルコによる福音書10章13節です。「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」とあります。全部が全部というわけではないのですが、一般的に子供たちはよく騒ぎますし、大人のようなマナーを身に着けているわけではありません。ですから主イエスの弟子たちはそのような子供たちを彼らの師である主イエスに引き合わせることは無礼であると考えたのだと思います。弟子たちは子供たちを下に見ている、軽んじているのです。想像してみてください。コロナ禍ではありますが、あるイベントが開かれたとします。そこに貴賓として国会議員の方が呼ばれたとします。その議員の方に様々な方々が挨拶に来られるかと思いますが、その方々はそのイベントの主催者や地元の有力者の方々だと思います。まさか、子供たちをその議員の方に引き合わせるために連れてくることはあり得ないでしょうし、もしそのような事をする大人がいれば周りの人々やその議員の秘書が止めると思います。なぜでしょうか?それは無礼であると彼らが考えるからです。主イエスの弟子たちと同じです。


 ですが、主イエスはどのように行動したでしょうか?14節から15節です。「しかし、イエスはこれを見て憤り」とあります。主イエスは弟子たちに怒ったのです。そして弟子たちにこう言われたのです。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」


 まず、なぜ主イエスは弟子たちに怒ったのでしょうか?それは 子供たちが主イエスのところに来るのを弟子たちが妨げたからです。弟子たちの行動は子供たちを主イエスのところに来させるのは無礼であるという極めて人間的な考えに基づいています。上か下かという考えです。しかし、主イエスは子供たちを主イエスの御もとに来させるという救いの観点から話していたのです。神の目線から話していたのです。いわば弟子たちは主イエスの伝道の邪魔をしていたのです。だから、主イエスは弟子たちに怒られたのです。同じマルコによる福音書8章31節から33節には主イエスが弟子のペトロを叱った場面があります。主イエスがこれからご自身が受ける苦しみ、人々からの排斥、死と復活について弟子たちに語った際、ペトロが主イエスをわきへ連れていき、主イエスにそのような事を言わないようにいさめ始めたからです。このペトロの行動もまた神の目線ではなく、人間的な考えから来ているのです。33節で主イエスはペトロにこのような厳しい言葉を言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」主イエスのペトロに対する憤りは子供たちが来るのを妨げた弟子たちに対する主イエスの憤りと同じものではないでしょうか?


 マルコによる福音書10章の14節、15節に戻ります。「神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と主イエスは言われました。神の国に入るためには子供たちのように神の国を受け入れる人でなければならないということです。どういうことでしょうか?まず、この時点での主イエスの弟子たちのような考えを持っている人たちは神の国には入れないということがわかるかと思います。彼らは神の事を思わず、人の事、無礼であるとか上や下であるとかいう考えを持っていたからです。さらに言うならばファリサイ派の人々、律法学者達もまた神の国には入れないことがわかります。確かに彼らは聖書の知識は相当持っており、社会的地位も持っておりました。しかし、彼らが主イエスに近づくのは議論をするため、または少しでも主イエスの言葉尻を捉えて主イエスを貶めるためでした。彼らが子供たちのように神の国を受け入れる事、主イエスの言葉を受け入れることから程遠いことがおわかりかと思います。主イエスがユダヤ人たちと口論した時、彼らに言った言葉がこれです。ヨハネによる福音書5章39節から40節「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証をするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」


 であるならば、私達はどのようにしたら良いでしょうか?それは難しいことであるかもしれませんが、主イエスの弟子たちのような人間的な考えを捨て、神の目線を持つことが大切です。子供のように神の言葉を受け入れることが必要です。本日の第二の聖書箇所にもまた弟子たちが人間的な考えに捉えられている事が描かれています。マタイによる福音書18章1節です。「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った。」ここでもまた、弟子たちが言っているのが上か下かという人間的な事です。それに対して主イエスはこう答えました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」


 主イエスはまずこう言っているのです。「はっきり言っておく。」明確に言っておくということです。よく聞きなさいということです。とても強い言葉です。そして「心を入れ替えて」と言います。つまり、彼の弟子たちにこの人間的な考えつまり上か下かという考えを捨てよと言っています。そうでなければ、天の国には入れないと言っているのです。私達もまたこの弟子たちのようであってはいけないのです。そして、ファリサイ派や律法学者達のように知識だけにより頼み、議論だけを好み、自尊心にとらわれてもいけないのです。そうした一切合切(いっさいがっさい)を捨てて、子供のように素直に神の言葉を受け入れなさいと主イエスは私達に迫っています。そのためには聖霊の助けがどうしても必要です。御言葉を受け入れましょう。

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