「岩の上に建つ教会」
2022年7月17日 聖霊降臨節第7主日 70周年教会創立記念礼拝
説教題:「岩の上に建つ教会」
聖書 : 新約聖書 マタイによる福音書 7章24-28節(12㌻)
〃 16章16-19節(32㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
この教会が建て替えられてからもう2年数ヶ月経ったと思います。ちょうど私が赴任する少し前にこの教会は建て替えられました。ですから私がこの教会に引っ越した時、すなわち2020年4月1日なのですが、この新しい教会に来ることが出来たということで胸躍る気持ちでした。そして、皆様、教会員の方々に迎えられ、ただひたすら神に感謝すると同時に皆様に感謝しました。そのことを今でも思い出します。それと同時に私がこの教会に遣わされてから様々な問題がありましたが、それらを皆さんと一緒になって解決してきました。正直言いますと、「よく解決することが出来たな」という思いです。もちろん、これらを解決することが出来たのは私の力ではなく、皆さんのご協力と教団から派遣されたメンターの方のお力とそして何よりも神様の力であるということは十分承知しています。神様に感謝ですね。
もちろん、教会が新築された事そして私がこの教会に遣わされた事もこの教会にとって大事なことではあるのですが、それはこの教会の歴史の一部分なのですね。より大切な事は浦和教会の全体の歴史なのですね。皆様のお手元にある浦和教会の歴史が重要な事なのです。これは先代の牧師 山路 進 牧師がまとめた物に幾つかの情報を加えた物です。この教会は関谷 紀美也 牧師(1代目)と柴田夫妻そして数名の人たちで始められました。その後、関谷 忍 牧師(2代目)、稲葉 基嗣 牧師(3代目)、山路 進 牧師(4代目)そして 私 伊豆 聖 牧師(5代目)となります。
私の個人的な考えなのですが、関谷 紀美也 牧師(1代目)そして関谷 忍 牧師(2代目)がこの浦和教会の基礎を作ったといっても過言ではないのではないかと考えるのです。特に関谷 忍牧師は牧会の期間も48年間と長かったので、今おられる教会員の方々の多くは関谷 忍 牧師の印象が強いかと思われます。
先程私は関谷 紀美也 牧師と関谷 忍 牧師がこの教会の基礎を作ったと申し上げましたが、基礎というものは何であれ重要な物です。この教会を御覧下さい。建ててから2年数ヶ月経ちましたが、まだ綺麗です。しかし、この建物の下に大量のコンクリートを流し込んだそうです。というのはこの土地は粘土質で地盤が大変弱いそうです。新築工事をしたとき、重機が沈み込んで困ったという事を聞きました。ですので、大量のコンクリートを下に埋めたということです。もしそれを埋めなければ建物はぐにゃぐにゃで不安定な所に建っていたことでしょう。大量のコンクリートを下に埋めるということはこの建物の基礎工事をしっかり行ったという事です。勉強でもそうですよね。私が学生の頃は受験勉強や学校の授業のために参考書や問題集を本屋で親に買ってもらいました。その時、先ず買うのは、基礎でした。基礎が出来てから応用に進みました。もし、基礎がわからないのに応用に進んだらよけいわからなくなることは目に見えているからです。教会の建物であれ、教会組織であれ、勉強であれ、基礎が一番大切であるということがおわかりかと思います。
さて、本日の第一の聖書箇所です。ここで主イエスは御言葉を聞いて行う者を岩を土台として家を建てる者に喩え、御言葉を聞いても行なわない者を砂を土台として家を建てる者に喩えました。
この教会の建物の話を思い出して下さい。この粘土質の土地にコンクリートを流し込んで建てた教会とこの粘土質の土地にそのまま建てた教会です。さて、どちらがよりちゃんとした建物でしょうか?岩を土台として家を建てた者、コンクリートを流し込んで教会を建てた者が砂を土台として家を建てた者、粘土質の土地にそのまま教会を建てた者に比べてはるかにしっかりしているということです。ちなみにこの岩というものは確かにしっかりした物という比喩ではありますが、父なる神、そしてキリストを表してもいるのです。
詩篇18章3節にはこのように書かれています。「主はわたしの岩、…わたしの神、大岩」
詩篇19章15節には「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない 心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。」
詩篇95章1節には「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。」
などです。
Iコリントの信徒への手紙10章4節では「皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」
つまり、御言葉を聞いて行う者とは砂のような不安定な物を土台とせず、岩のようなしっかりとした物、もっと言うならば、キリストを土台として家を建てる者であるということです。
今一度、私達は自分自身に問い直さなければなりません。私達は御言葉を聞いているだけなのか、聞いてそれを実行しているか?
私達は何を土台として生きているのか?砂のような不確かな偶像(認められたい、コントロールしたい、名声、成功したい、安心感を得たい、快楽、知識、注目されること、尊敬されること、金、等)を土台としているか、それともしっかりとした岩であるキリストを土台としているかということを問わなければなりません。
本日の第2の聖書箇所は主イエスがペトロに「自分は何者であると思うか」と問われた時、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。それを受け、主イエスはこのように仰られました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」
主イエスはペトロを岩として喩え、その上に教会を建てると仰られた。ここで注目するのはペトロにこの証をさせたのは「人間ではなく、天の父なのだ」という主イエスの宣言です。つまり、この天的な力、聖霊の力こそが主イエスに「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言わしめたのです。
私達の教会の建物はコンクリートの基礎つまり土台が入っていますので大丈夫です。また教会の組織に関して言えば、関谷 紀美也 牧師、関谷 忍 牧師が基礎つまり土台を固めましたし、その後に続く牧師がそれぞれの役割を担ってきました。先生方が残された書類によって私の仕事が助けられている面が多々あります。例えばこのナザレンの歴史に関しても山路 進 牧師が残された資料によるところが多いのです。しかし、最も大切なことは私達自身のこれから歩んでいく信仰生活、教会がキリストという岩の上にたっているかどうかということです。キリストこそ私達の岩です。その上に教会は建てられるのです。「あなたはメシア、生ける神の子です。」とペトロは言いました。わたしはさらにこう続けたいです。
「あなたこそ私の岩、私を救ってくれた贖い主です。」
Comments