「弱い人を受け入れる」
2021年11月14日 降誕前第6主日礼拝
説教題:「弱い人を受け入れる」
聖書 : 新約聖書 ローマの信徒への手紙 14章1-12節(293㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
まず、パウロは「信仰の弱い人を受け入れなさい。」と言います。この弱者を救済するという姿勢は旧約聖書から受け継がれているものです。主なる神がイスラエルの民をお選びになられた理由の一つがイスラエルの民の弱さではなかったかと思われます。例えば申命記7章7節から8節にはこのように書かれています。
「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」
この箇所では主なる神がイスラエルの民をお選びになり、お救いになられた理由として、イスラエルの民の数の少なさ、弱さに対する主なる神の憐れみと愛、そして主なる神がイスラエルの民の先祖であるアブラハムにカナンの土地を与えると誓われた約束が挙げられています。この旧約聖書に出てくる主なる神の弱者に対する愛と憐れみはここ以外の箇所にも見受けられます。例えば、寄留者、寡婦、孤児、貧困者を苦しめてはならないという人道的律法があります。これは出エジプト記22章20節から26節に書かれています。
これまでは旧約聖書において、主なる神の弱者に対しての姿勢というものを見てまいりましたが、新約聖書ではどうでしょうか?ルカによる福音書15章11節から32節に出てくる放蕩息子の話、マタイによる福音書18章12節から14節に出てくる、迷い出た一匹の羊のために他の迷わずにいる九十九匹の羊を残し、その羊を探しに出る人の話、マルコによる福音書2章14節から17節に出てくる、ファリサイ派の律法学者が主イエスの弟子たちに、主イエスが徴税人や罪人たちと一緒に食事をする理由を尋ねた時、主イエスが「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と仰られた話を見てみますと、やはり弱者救済は神の御心であると考えます。
であるならば、パウロがこのように、ローマの信徒に言われるのも分かる気がします。弱者に対する愛と憐れみが旧約聖書のユダヤ教から新約聖書のキリスト教の基本だからです。しかし、パウロがこのように言った理由がもう一つあります。キリスト教は様々な人々を受け入れるからです。つまり、キリスト教は多様性に富んでいるということです。主イエスがこの地上で福音・伝道をなさっていた時代を思い返してください。主イエスがファリサイ派、律法学者達と様々な事で対立なされました。安息日に人を癒やすこと、食事の前に手を洗わないこと、そして罪人や徴税人と食事をすることなどです。ペトロが異邦人の所に行って食事をし、聖霊のバプテスマを受けた異邦人に水でバプテスマを授けたことも同じユダヤ人に非難されました。ユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人キリスト者は異邦人のキリスト者に律法を守るよう指示し、パウロはそのことに反対し、エルサレムで会議が開かれたほどでした。結局、その会議では異邦人は「偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避ける」こと以外は律法を守る必要がなくなりました。そして、パウロはローマの教会、異邦人の教会に手紙を書いています。これらの事を考えるとパウロがこのような信徒の個性、教会の多様性を強調する手紙を書いたのは自然の成り行きです。「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」とローマの信徒への手紙14章の2節から3節に書かれています。さらに「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。」と5節に書かれています。ここに信徒の個性と教会の多様性を強調するパウロの姿勢が見て取れます。そして、考え方や立場が違っても信徒たちはお互いを尊重すべきであるというパウロの考え方が分かります。もし、考え方や立場で非難し合うのであれば、私たちは主イエスに対して安息日を守らない、食事の前に手を洗わない、そして罪人や徴税人と食事をし、律法を守っていないと非難し、裁いたファリサイ派や律法学者と等しくなってしまうのではないでしょうか?
その人の個性や多様性を重んじることは今私達の社会や教会で求められている事です。以前にもお話したことがあるのですが、日本社会や教会で外国の方々をお見かけするのは普通のことです。この近所でも様々な外国の方々をお見かけいたしますし、日本語学校も近くにあります。さらに言うならば、私たちの教会と親しい日本ナザレン教団南浦和教会はフィリピンの方々を中心とした教会です。私たちはこれだけ様々な国から来られた方々と一緒に生活しているのです。
確かに社会や教会の中で多様性を重視するということは必要だと分かるのですが、なかなかそのように相手と接することは難しいのです。それは私たちには自分たちが生きてきた経験があり、その経験によって培われた判断基準があり、その基準に従って判断してしまうからです。もっと言うならば、その基準に従って、軽蔑し、裁いてしまうからです。しかし、私たちは相手を思いやることが必要だとパウロは言うのです。つまり、私たちは自分の判断基準を持ちつつも相手を思いやらなければいけないのです。それには相手への敬意がなければいけません。人に対する思いやりや敬意は私たちキリスト者にとってとても大切なことです。
突然ですが、日本のあるプロ野球の球団の監督が交代しました。私はこの新たに着任した監督の会見を拝見したのですが、彼は服装からしてとても派手で従来の監督像からするとおよそ監督らしからぬ格好でした。発言もまた所々冗談を交え、「優勝を目指さない」といった監督としては型破りなものでした。しかし、彼の発言には同席した親会社の社長、球団社長への配慮と敬意がありました。そして、彼と現役時代、選手として、プレーした球団のゼネラルマネージャー、そして、彼をこの球団に招いた元ゼネラルマネージャーに対する配慮と敬意もありました。また、地元の人々、ファンの人々に対する配慮と敬意もありました。あれだけの個性を持っているにも関わらず、周りの人間を思いやるということはなかなか出来ることではないと感じました。さらに、彼は選手の名前はわからないが、プレーは見て、頭に入っていると言いました。その会見後、彼は選手のキャンプに視察に行くのですが、選手の個性に合わせて、言い方も考えて、指導しました。もちろん、彼はキリスト者ではないですが、自分のことを相手に理解させ、親会社の社長、球団社長、ゼネラルマネージャー、元ゼネラルマネージャー、選手たちといった全く彼と異なる価値観の人々を受け入れるという点で彼は素晴らしいと思うのです。
私はここまで価値観の違う人や多様性を私達の社会や教会で受け入れることは大事であると言ってきました。しかし、それは何でもかんでも受け入れるということではありません。なんでもありというわけではないのです。「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」と6節にあります。つまり、「主のため」ということが重要なのです。何か特定の物を食べる、食べないということや特定の日を重要視する、重要視しないということ自体はそれぞれ個別の信条に基づいていることなのです。語弊はあるかもしれませんが、その当人にとってはその行為は意味のあることかもしれませんが、他の人々にとって重要ではないのです。重要なことは「主のため」ということなのです。もしこの「主のため」という事が崩れたらなんにもならないのです。そして、私たちは何でもありということで、何でもしてしまうのです。しかし、何でもありということをパウロは言ってはいません。もし、パウロは何でもかんでもそれが個性であり、多様性だと言って、許していたのであれば、どうして、パウロはコリントの教会に対して手紙を送り、不道徳な行為を非難したのでしょうか。(Iコリントの信徒への手紙5章)
ですから、私たちはもう一度、自分たちの違いを認めつつ、敬意を持ちつつ、信仰の道を歩んでいこうではありませんか。そして、私たちは何が主のためかと考え、ともすれば「互いの違いを認めあいつつ歩む」ということと「何でも許されている」ということを一緒にしようとする悪意と戦っていこうではありませんか。
Comments