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「弱者をいたわる」

  • urawa-church
  • 2023年10月15日
  • 読了時間: 8分

2023年10月8日 聖霊降臨節第20主日 

説教題:「弱者をいたわる」

聖書 : 新約聖書 フィレモンへの手紙 1章8節-21節(399㌻)​​

説教者:伊豆 聖牧師


 もう何度か申し上げてきているのですが、私達の社会はどんどん悪くなってきていると思います。インターネット、ソーシャルメディアでの誹謗中傷は増えています。そしてユーチューバーによる行き過ぎた行為も問題になっています。例えば、迷惑系ユーチューバーと呼ばれる人々がいますが、ある人物はスーパーでまだ購入していない食品を食べたりして、逮捕され、裁判にかけられ、有罪になりましたが、執行猶予になりました。また飲食店で調味料に直接口をつけるなどして、それをインターネットに公開して、店側から訴えられるということもありました。

 ある芸能事務所では故人である社長が所属事務所のタレントたちを何十年に渡って性的に虐待していました。当然虐待されていた側というのはその社長に気に入られるか気に入られないかでデビューし、売れるか売れないかが決まってきます。そういう意味において彼らは弱者だったわけです。そして彼ら弱者は強者であるその社長に何十年にも渡って虐待されてきたというわけです。被害者は相当の数であると聞いています。幾つかの告発本、告発ビデオが世に出されましたが、大手マスメディアは無視し、その事務所に所属するタレントを使い続けてきました。また一般企業も彼らをコマーシャルで使い続けてきました。週刊誌がこの性被害の事を報じて、事務所が訴え、裁判となりましたが、裁判でこの性被害が事実であると認定されました。民事でしたが。しかし、この事を積極的に報じる大手マスメディアはいませんでした。警察も動きませんでした。ここまで見てきますと、事務所とその社長、マスメディア、警察といった強い力を持った者たちが、積極的に(直接的な搾取をする)もしくは間接的に(報道をしなかったり、逮捕しない)弱い者を蹂躙してきたという構図です。そしてBBCの報道と国連の査察団の聞き取りで明らかになり、ようやく問題になりました。ですが、今度は本来この事務所に忖度して報道してこなかったメディアが今度は正義の味方のようになって事務所を非難しているのにはあきれかえるばかりです。


 旭川ではある女生徒が壮絶ないじめ、私の見解では犯罪行為ともいえるものを受け、自殺しました。彼女と親は学校に何度も訴えましたが、学校側は取り合ってくれず、結局彼女は自殺をしてしまいました。第三者委員会が組織されましたが、いじめはあったが、彼女の自殺との因果関係は立証できなかったということです。彼女のご両親はそれを不服として、第二回の第三者委員会が組織されて、審議されているということです。


 めったなことは言いたくないのですが、この大手事務所の問題にしても、いじめの問題にしても弱者が搾取されています。そして弱者を守るべき責任ある大人たちが積極的であれ、消極的であれそれに加担している図式が見えてきます。これが日本社会の構造の一部分とは情けないことであります。


 さて、フィレモンへの手紙ですが、これは使徒パウロがコロサイに住むフィレモンという人物に書いた手紙です。書かれた年代は紀元後64年で、パウロがローマの獄中から書いた手紙です。獄中といっても手錠をはめられて、檻に入れられて、自由がなかったわけではなく、行動の制限はあったが、それ以外はわりと自由であったということです。


 さてフィレモンというのはどういう人物かというと、クリスチャンの実業家であったということです。フィレモンは使徒パウロによってクリスチャンになり、コロサイの共同体に属していて、その中で家の教会を行っていたということです。ですから、パウロはフィレモンの師であるということですね。また2節には姉妹アフィアとありますが、彼女はフィレモンの妻であり、戦友アルキポは彼らの息子であったと言われています。


 さて、本日の聖書箇所は使徒パウロによるフィレモンへのオネシモのとりなしです。どういうことかといいますと、このオネシモ(ギリシャ語で役に立つ)という人物は元々フィレモンの奴隷だったわけです。そしてオネシモはフィレモンから金品を盗み、逃げ出したということでした。そしてローマに行き、獄中のパウロにであったということです。

 パウロはこのオネシモをフィレモンの所に送るので、彼を赦して迎えて欲しいというのです。具体的にはその盗んだ罪を赦し、奴隷としての身分から解放し、自由にし、一クリスチャンとして面倒を見て欲しいとフィレモンに頼むのです。

 パウロはその頼み方も工夫しています。8節、9節を見てみるとそれがわかります。8節でパウロはフィレモンにその事を命じる権威があると言っています。なぜなら、パウロは伝道者としての権威を持っているのに対してフィレモンは裕福ではありましたが、一信徒に過ぎず、パウロはフィレモンの師でもあったからです。しかし、彼はあえてその権威を用いず、フィレモンの愛そして彼に自発的に従うことを期待したのです。それはあたかも主イエスがへりくだり、神の身でありながら、人の世に下ったことに倣っていました。パウロは自身の事を「キリスト・イエスの囚人」と呼びました。このことでパウロがいかにキリストに捉えられているか、彼の信仰がいかに強いかがおわかりかと思います。そして10節でオネシモの事を「監禁中にもうけたわたしの子」とまで呼んでいます。自分が主イエスに捉えられている中で産んだ子とまで呼んでいるのです。いかにパウロがオネシモを大切に思っているかがこの表現で分かるかと思います。


 さらにパウロは11節でオネシモを「今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。」と言っています。まさに名前通りですね。12節ではさらにオネシモを「わたしの心」とまで呼んでいるのです。


 パウロは続けるのですが、本当であれば、オネシモを自分の所に置いておきたいのだが、フィレモンの承諾なしにはそれをしたくないと言っています。これもまた、自分はフィレモンの師であるので、承諾なしにそれをすることが出来るのだが、やはりへりくだってということなんでしょう。実際はそれを自発的にすることをパウロは期待していたのかもしれません。事実14節の後半部分に書かれています。


 そしてパウロは最終的にはフィレモンが一時的にオネシモを手放し最終的にオネシモを自分の所に置いておくのは神のご計画であったということを述べています。そうであるなら、オネシモを奴隷ではなく兄弟として迎えて欲しいということをパウロはフィレモンに願い出ているのです。16節17節にそれが書かれています。

 18節、19節ではパウロはオネシモの負債、例えば、オネシモが盗んだ金品、オネシモの奴隷としての値段等はパウロが負担すると言い、パウロ自身が書いていると宣言することで、ここに書かれていることの保証をしているのです。さらに、フィレモンに対して「あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。」と言っています。フィレモンがパウロに負うていることとは何でしょうか?それはやはりパウロがフィレモンをキリストに導き、指導してきたということでしょう。パウロはオネシモがフィレモンに負っている負債を背負い、フィレモンがパウロに負っている負債は帳消しにするという姿勢です。フィレモンの師であるパウロがここまですると提案しているのに、フィレモンがパウロの頼み事に応じないということがあるでしょうか?私はしないと思います。


 パウロのこの申し出で私は二つの事を思い出します。一つは赦しに関しての喩えです。マタイによる福音書18:23-33です。王様に負債を負っている家来が負債を払えませんでした。財産も、家族も、自分自身も売って払いなさいという王様に対して「どうか待って下さい。」と言いました。王様は哀れに思い、この家来の負債を免除します。その後、この赦された家来は彼に借金をした同僚を見つけ、借金を返せと迫ります。この同僚も「待ってくれ。」と言うのですが、彼はこの同僚を赦さず、負債を払い終えるまで牢屋にいれたということです。この事を王に報告したところ、王は激怒し、この同僚を赦さなかった家来を呼び出し、牢に入れたということです。つまり、パウロはフィレモンに対してこう言っているのです。

「フィレモン、私はあなたをキリストに導き、指導したことに対してなんの見返りも求めません。またこのオネシモがあなたに対して行った事、つまり盗んだ品物及びオネシモ自身の奴隷としての値段を払う。」

二つの事を思い出すと言いましたが、もう一つの事というのは主イエス・キリストがこの世に来られたことです。主イエスがこの世に来られたのは十字架上で私達の罪、負債を背負うためでした。パウロがこのオネシモの負債を背負い、帳消しにし、さらにフィレモンがパウロの負っている負債を帳消しにするというのは主イエスの生き方を体現しているのです。


 なぜ、パウロはこのようにオネシモを助けようとしたのでしょうか?もちろん、この逃げ出してきたオネシモと出会い、キリストに導き、そして彼と共に主にあって生活するにあたって、キリスト者の交わりにあって、彼を大切に思っていたからです。

 本日の聖書箇所ではないのですが、この手紙の最初の部分ですね。4節から7節にかけてですが、パウロはフィレモンがコロサイの地、家の教会で人々に示している愛と信仰がいかに素晴らしいかということを書いています。

そして6節では

「あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。」

と書いています。つまり、交わりの重要性を言っているのです。

主にあっての信仰、愛、喜び、交わりということがクリスチャンにとって重要なのです。そしてパウロはそのような共同体にオネシモを導いてほしいとフィレモンに申し出ているのです。フィレモンにはそれが出来るということをパウロは確信しているのです。これこそが、弱者をいたわることであり、そのいたわり以上の事、キリストの共同体であると私は思います。 

 私達はどちらを選びますか?この様な共同体か?それとも無責任な、醜い大人たちの社会か?

 
 
 

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