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「律法か御心か」

2021年8月8日 聖霊降臨節第12主日礼拝

説教題:「律法か御心か」

聖書 : 新約聖書 ヨハネによる福音書 5章8-18節(171-172㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 主イエスと律法学者やファリサイ派の人たちとの対立は聖書に多く出てきます。主イエスが律法を度々破ったことそしてその事に対して彼がなんとも思わなかったことに対して彼らが憤ったということでした。今回もそのことで主イエスとユダヤ人達との対立が起こりました。主イエスは病気で起き上がれない一人の人に対して「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言われました。その言われた人は主イエスが言われたように回復し、床を担いで歩き出しました。この事は本日の聖書箇所ヨハネによる福音書5章8節から9節に書かれています。その人はどんな病気かは知りませんが、38年間その病気で苦しんでいて、立ち上がることが出来ないほどであったのです。彼は自分がいやされたいと思っていたと同時にいやされることはないだろうと思っていたかもしれません。    


 本日の聖書箇所の前の部分、ヨハネによる福音書5章2節から5節、7節を見てみますと、「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で『ベトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。(中略)病人は答えた。『主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。』」とあります。このことからわかることは第一にベトザタという池の水が動くとき、その池にはいると病気がいやされるということ、第二にその池に続く回廊にはそれを狙って多くの病人がいたということ、第三にこの三十八年間病気を患っていた人も、その内の一人であったが、彼は体が不自由であって、他の病人たちに何度も先を越されてしまったということです。もちろん、彼がこの回廊を去らなかったのはいつか彼を池の中に入れてくれる人が現れるのではないかと期待していたかもしれません。しかし、彼は何度も他の人達に先を越され諦めていたかもしれません。彼が回廊を去らないという行為は彼の期待を表しています。しかし、彼の発言は絶望を表しています。


 このような状態であっても主は彼に憐れみを示し、彼をいやしました。本来であればこの三十八年間病気で苦しんでいた人がいやされたのですから喜ばしいことであるはずです。しかし違っていました。9節の最後のフレーズは「その日は安息日であった。」です。安息日は律法によれば労働してはいけない日です。そしてこのいやされた人が床を担いで歩く行為を労働とみなされ、律法に違反しているということになるのです。だからこそ、この三十八年間病に苦しんでいた人がいやされたことを喜ぶよりも、この人に「床を担いで歩きなさい」と言った人物を探すことに躍起になったのです。まさに犯罪を犯した犯人を捕らえようとするかのような状態です。彼らは彼にそのように言った人物を尋ねるのですが、彼は答えられませんでした。なぜならその時点で彼は彼をいやした方が主イエスだとは知らなかったからです。


 その後、主イエスはこのいやされた人と神殿の境内で出会い、彼に言葉をかけられました。それは「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」と5章14節に書かれています。実際、その人がどんな罪を犯したからその病気になったのかということはわかりません。しかし、この時、この人は自分をいやしたのが主イエスだということを知りました。そしてその事をユダヤ人たちに告げました。なぜ、この人がユダヤ人たちに告げたのかはわかりません。ただ単に聞かれたから答えたのかもしれませんし、たぶん、このユダヤ人たちはファリサイ派の人々や律法学者たちであったと推察されますので、脅されたのかもしれません。ユダヤ人たちはこの事をしたのが主イエスだと分かったので主イエスを迫害し始めました。16節に「そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。」と書かれています。ユダヤ人たちは主イエスを安息日を破った者として、それこそ犯罪を犯した犯人のごとく問い詰めました。しかし、主イエスはユダヤ人たちのこの安息日を破ったという非難に対して恐れ入るどころか逆にこう言われました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」17節にあります。


 ユダヤ人たちは安息日を含めた律法を守ることが神に従い、神に仕えることであり、そして神の前に正しいことであると考えていました。律法主義です。なぜ彼らがそのように考えたのかという歴史に由来するのではないかと思うのです。旧約聖書を読むと彼らはモーセが神から与えられた律法をないがしろにしてきたという側面があります。奴隷であったエジプトから脱出した時、神がシナイ山でモーセに律法を与えた時も、彼らはモーセがどうなったかわからないからと言う理由で祭司アロンに、これから彼らを導く新しい神を作ってほしいと言い、アロンは黄金の子牛を作り、彼らはそれを神に見立て、踊り、それで神を怒らせました。その後、彼らは荒野をさまよっていた間も度々神に逆らい、結局彼らの世代ではヨシュアとカレブ以外は約束の土地カナンに入れず、荒野で死に絶えました。そして彼らの子供世代が入ることを許されました。

さらに、この子供世代の人々も、この約束された土地に入ってから神を捨て、度々他の民に攻められたり、服従させられたりしています。その後、ダビデ王、ソロモン王の元で国としてまとまりましたが、ソロモン王が晩年神を捨てたことで、彼の死後、国はユダ王国とイスラエル王国に分裂しますが、それぞれの国で人々は神を捨て他の神々を拝み、国内に不正がはびこりました。結局イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、ユダ王国はバビロンによって滅ぼされユダ王国の人々はバビロンに捕囚として連れて行かれました。

バビロニア帝国崩壊後、彼らは故郷の地に帰ることを許されますが、その後ローマ帝国によって支配されました。ユダヤ人たちは自分たちが神に逆らったからこのようなひどい目にあったのだと考えるのは当然だと思います。しかし彼らは律法を守ることこそが神に従うことであると考えてしまったのです。そして、自分たちでつくった事細かなルールを加え律法としました。今回のことも主イエスが安息日を守らなかったという理由で主イエスを問い詰めました。律法を破る、安息日を破る事は彼らにとって悪だからです。

しかし、神の御心はどうでしょうか?安息日であっても人をいやすことを悪とするでしょうか?少なくとも主イエスは安息日に人をいやすことを罪とする、悪とは思いませんでした。人をいやすことは良い事であり、安息日に良い事をすることは神の前に正しいと主イエスは考えました。そしてそれは父なる神の御心でもあるということを知っていたのです。


 私達は法律を守ることが正しいことだと考えます。しかし、私達が何も考えずにそれに従っていくとこのユダヤ人たちと同じ間違いをしてしまいます。法律は完全ではなく、常に変えられるものだからです。私達は神の御心に照らし合わせて何が正しくて何が間違いなのかを吟味して行動しなければならないと思います。どうしたら出来るでしょうか?聖書を読み、祈り、聖霊に働いていただくということだと思います。律法主義ではなく、何が神の御心であるかを問わなくてはいけないのです。エゼキエル書36章26節から27節にはこう書かれています。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」これは神が預言者エゼキエルを通して捕囚にあった民に対して語った言葉ですが、私達への言葉でもあります。この中で言われている「新しい心」「新しい霊」「肉の心」「わたしの霊」「わたしの掟」「わたしの裁き」とは決してユダヤ人たちの定めた律法ではありません。神の御心です。主イエスの言われたことです。さらに、神は預言者エレミヤを通して捕囚の民にこのように語りました。「わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」エレミヤ書31章33節です。ここで言われている「律法」もまたユダヤ人たちの律法ではなく神の御心なのです。私達はこの神の御心に従って歩めるよう日々祈ろうではありませんか。

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