「従順と信仰」
2022年1月23日 降誕節第5主日
説教題:「従順と信仰」
聖書 : 新約聖書 マタイによる福音書 8章5-13節(13㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
主イエスはこの地上で伝道をなさっていた時、神から来られた「しるし」として病人をいやしたり、悪霊を追い出したりと様々な奇跡をなさったということは皆さんご存知かと思います。そして、主イエスが奇跡をなさる上でどちらかというと同胞であるユダヤ人の人々を優先したのではないかと思わせることが何箇所かありました。例えば、マタイによる福音書15章21節から28節に出てくるカナンの女性の話では、異邦人であるカナンの女性が主イエスに自分の娘から悪霊を追い出して欲しいと懇願するが、主イエスはなかなか彼女の願いを聞き入れませんでした。主イエスが彼女の願いを聞き入れなかった理由は父なる神が主イエスをユダヤ人(失われた羊)の元に遣わされたからというものでした。最終的にはこのカナンの女性の「子犬は食卓から落ちたパンくずを食べるのです。」という「へりくだる姿勢」の信仰によって主イエスは突き動かされ、この女性の娘から悪霊を追い出します。さらに、主イエスが弟子たちに悪霊を追い出したり、病気をいやしたりする権威を与え、派遣する時、こう言われました。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(マタイによる福音書10章5節から6節)
このように、救いにおいて、異邦人よりユダヤ人を優先しているのではないかと思わせる箇所がある一方で異邦人をユダヤ人より優先しているのではないかと思わせる箇所も見受けられます。例えば、良きサマリア人の話では、その当時ユダヤ社会では軽蔑されていたサマリア人がユダヤ社会で尊敬されていた祭司やレビ人よりも、隣人に対して憐れみを持って接したということを主イエスは語っています。あと、サマリアの女性の話で主イエスはやはりユダヤ人達に軽蔑され、口も聞いてもらえないサマリアの女性に話しかけ、会話を始めました。もちろん、ユダヤ人は異邦人やサマリア人と交際しないという文化的、慣習的なものが存在したからこそ、主イエスもそれにある程度の配慮をしたのかもしれませんし、さらに父なる神のご命令によってユダヤ人のところに遣わされたのでしょう。しかし、このように主イエスは一見するとユダヤ人を優先するかのようなことをしつつも、異邦人やサマリア人達を優先するということをなさっているのです。そして、今回の聖書箇所でもまた異邦人を優先するかのようなしるしをお示しになられました。
「さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいてきて懇願し、『主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。』と言った。」とあります。
(マタイによる福音書8章5節から6節)
まず、ここに出てくる百人隊長という人物です。彼はローマの兵隊の司令官でした。当時イスラエルはローマに支配されていました。彼はローマ人で支配者側の人間だったわけですね。当然のことながら、イスラエルに住んでいる人々はローマ人を嫌っていましたが、恐れてもいました。そして、ローマ兵はイスラエルのユダヤ人に対して威張ってもいて、無理難題をふっかけることもしたということを聞いています。例えば、ローマ兵が突然、イスラエルのユダヤ人に自分の荷物を持って歩けと言っても、ユダヤ人は従わなければならないといった具合です。主イエスが山上の説教で「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」とおっしゃられました。(マタイによる福音書5章41節)
主イエスはこの事をおっしゃられた時、ローマ兵の事を思い浮かべたと思います。ちなみに一ミリオンとは約1500メートルです。
さらに、主イエスが十字架にかけられた時、その途中でローマの兵士に無理やり十字架を担がされた人物がいます。それはシモンというキレネに住んでいたユダヤ人で田舎から出てきてその地をたまたま通りかかったので十字架を担がされたということです。マルコによる福音書15章21節に書かれています。
少し話が広がってしまいましたが、当時のローマ、そしてローマ兵はイスラエルとそこに住むユダヤ人に対して強い支配と権威を持っていました。ということはこれらローマの兵士を束ねる百人隊長は相当な権威を持っていたと考えられます。その百人隊長が主イエスに「懇願」したのです。「命令」したのではないのです。もちろん、私達キリスト者にとって見れば、主イエスは神の御子であります。そして、当時のユダヤ社会で言えば、主イエスは非常にすぐれた教師(ラビ)でありました。しかし、ローマ人から見れば、主イエスは征服されたユダヤ人に過ぎません。常識的に考えれば、征服者、支配者であるローマ人の、それもローマの兵士を束ねる百人隊長が敬意を払うべき相手ではないはずなのです。しかし、この百人隊長は主イエスに「懇願」したのです。さらに驚くべきことに彼は主イエスの事を何と呼んだのでしょうか?「主よ、」です。
たぶん彼は6節で自分の僕が苦しんでいると主イエスに訴え出るほど心優しい人物だったのでしょう。ルカによる福音書7章1節から10節にかけて同じことが書かれているのですが、その中の4節から5節によると、この百人隊長はユダヤ人を愛していて、会堂まで建てたということをユダヤ人の長老たちが語っていたということです。しかし、部下思いで心優しく、教会堂を建てるほどユダヤ人を愛していたとしても、ユダヤ人である主イエスを主と呼び、彼の部下を治していただくよう懇願するでしょうか?常識的に見て考えられません。つまり、ありえないことが起こったのです。何が、この百人隊長にこのようなことをさせたのでしょうか?
この百人隊長は主イエスの話を人づてには聞いていたのでしょう。病人をいやし、悪霊を追い出しているということを聞いたのです。しかし、実際に見てはいない。しかし、彼は信じたのです。実際は見ていないものを信じたのです。これこそが信仰です。ヘブライ人への手紙11章1節にはこのように書かれています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
この百人隊長は異邦人でありながら、この信仰を持っていたのです。そして、彼の言葉はさらに驚くべきものでした。主イエスが「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われたのに対して彼は「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(マタイによる福音書8章8節から9節)
ここで百人隊長は主イエスに対してへりくだっています。そして、主イエスの御言葉の力を信じ、そして権威を信じています。彼はローマの百人隊長というこの世の権威を持っています。しかし、そんな権威を吹き飛ばすほどの主イエスの権威なのです。そして、主イエスがこの奇跡を実際に行う前から主イエスの御言葉の力、主イエスの権威を認め、それを公然と言い表しているのです。これは百人隊長の証です。私達はキリスト者でありますが、これほどの信仰と証を持っているのでしょうか?
だからこそ、主イエスは感心しこのようにおっしゃられたのです。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」(マタイによる福音書8章10節)
さらに、主イエスはこう言われました。「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタイによる福音書8章11節から12節)その後、主イエスはこの百人隊長に「あなたが信じたとおりになるように。」と言われ、僕はいやされました。
イスラエルの民は神に選ばれました。そして、御言葉も優先的に伝えられました。しかし、そのような選ばれた民であっても神の御心に背き、御子を受け入れなければ、神の御国に入ることが出来ないということを主イエスは言われています。洗礼者ヨハネは洗礼を受けに来たユダヤ人たちに何と言ったか覚えているでしょうか?「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」です。プライドは不要です。私達はこの百人隊長のような従順さと信仰を持たなければいけないのではないでしょうか?
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