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「復活の希望」

  • urawa-church
  • 2023年11月12日
  • 読了時間: 7分

2023年11月5日 降誕前第8主日 召天者記念日 

説教題:「復活の希望」

聖書 : 新約聖書 Ⅰコリントの信徒への手紙 15章50節-58節(322㌻)​​

説教者:伊豆 聖牧師


 今日は召天者記念日礼拝です。この浦和教会で召天された私達の信仰の先達たちを偲(しの)びつつ、主を礼拝する日です。この講壇の前のお写真をご覧になり、また皆さんにお渡ししたリストの中の召天者の方々のお名前や紹介文をご覧になりつつ、その方々との思い出を思い起こしていただければと思います。


 さてキリスト教では死に対する考え方が日本人の一般的な考え方とは大きく違っていると思います。日本人の一般的な死に対する考え方ということは何だという議論があるのですが私が今思い浮かべているのは仏式と思っていただけたらよろしいです。

私達の親しい方もしくは親しくなくても仕事上でお付き合いのある方が亡くなられたということを耳にしたとします。そしてご遺族にご挨拶をする機会があるとします。その時、私達の第一声は大体「この度はご愁傷さまです。」もしくは「お悔やみ申し上げます。」ということになるかと思います。

 ですが、キリスト教の葬儀ではこの言葉をあまり使いません。

「天に召された誰々(召天者のお名前)さんの平安を祈ります。」もしくは「ご遺族の上に主の慰めが与えられますようお祈りします。」といった言葉になります。

お悔やみの言葉よりも慰めの言葉になるのです。


 なぜ、このようになってしまうかといいますと、キリスト教では私達の死は死で終わるものではなく、やがて私達は復活し、主イエスにお会いになるということを信じているわけです。そう考えると死というものは悔やむべきものではなく、やがて主イエスとお会いになることを待っている喜ぶべき状態であるというわけです。どうして私達は死後、復活すると考えるかというと、主イエスが十字架上での死から復活したことを私達が信じており、さらに主イエスに連なっている私達もまた死後復活し、主イエスとお会いするということを信じているからです。

そういう意味ではキリスト者の死というものは喜ぶべきものなのですが、やはり死それも近しい人の死は悲しいのです。ですが、悔やむ言葉は使えない。ですから慰めの言葉が使われているのです。ですからキリスト教で主イエス・キリストの復活、そして私達の復活は重要なことなのです。


 本日の聖書箇所です。「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」

(Iコリントの信徒への手紙15章50節)

「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、」とはどういう意味でしょうか?まず、「肉と血」を考えてみましょう?まず初めに考えられるのは私達の体全体を指すのではないかとお思いかもしれませんね。この説教の後に行なわれる聖餐式を考えてみましょうか?そこで私達はウェハースを食べ、葡萄液を飲みますが、そこで私はウェハースを皆さんに配る時には「これはあなたのために割かれたキリストの御身体です。」と言い、葡萄液を配るときには「これはあなたのために流されたキリストの血潮です。」と言いますね。


 ですから、パウロがここで言っていることも私達の実際の体と血とも取れます。この文の次に「朽ちるものは朽ちないものを受け継ぐことはできません。」と書かれていますので、文脈上この「肉と血」は「朽ちるもの」である。当然のことながら、私達の実際の「肉と血」は年とともに衰えていきますし、私達が死ねば朽ちるものです。ですから、ここで言われている「肉と血」とは実際の私達の身体であるということも出来ます。しかし、パウロが言っている「肉と血」はただ単に私達の実際の身体だけの意味なのでしょうか?


 同じくパウロがローマの信徒へ書き送ったローマの信徒への手紙8章1節から17節には彼が霊に従って生きることと肉に従って生きることに関しての議論をしています。霊に従って生きることは神の霊、キリストの霊に従って生きることであり、その結果は生きることであり、復活であり、平和です。しかし肉に従って生きることはこの世の価値観で生きることであり、その結果は死です。


 ここから考えられることはパウロが言っている「肉と血」とはこの世的に生きることであると言えます。そしてそれは朽ちるものであり、その結果は死であり、当然のことながらそのようであれば、復活を含めた神の国を受け継ぐことなどは出来ようがありません。


 51節には「…わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。」と書かれています。「眠りにつくわけではありません。」この「眠りにつく」とは「死ぬ」ということです。つまり「死にっぱなし」ということです。つまり、「死にっぱなしではない。」ということです。そして次に「わたしたちは、皆、今とは異なる状態に変えられます。」とあります。どういうふうに変えられるかというと、52節で「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」

 どうしてこのように死者は、そして「今と異なる状態」、すなわち「朽ちない者」に変えられる必要があるかというと、先程申し上げたように復活することを含めた神の国を受け継ぐためということになります。なぜなら、このままの状態、自然のままの状態では私達は「血と肉」に生きる者、肉に従って生きる者であり、結果として朽ちる者であるからです。朽ちる者は朽ちない神の国を受け継ぐことが出来ないのです。53節、54節とこの朽ちるものと朽ちないものの議論が続いていきます。そして私達が朽ちないものとされた時私達は死に打ち勝つのです。

「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

(54節後半から55節)


 このような力強いパウロの言葉に関わらず、私達はなかなかこのように考えられずにいます。それはやはり死者の復活ということが私達現代人にとって受け入れがたいものだからです。

パウロが生きていた時代にもそのように思われていた人が大勢いました。例えば、パウロがアテネで宣教をしていた時のことですが、死者の復活の事に関しては受け入れなかった方々はいました。

「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。」(使徒言行録 17章32節)

この場面はこの人々がまだキリスト者ではなかったのでこのような反応を示したとしてもしょうがないと思われます。

しかし、キリスト者の中でさえ死者の復活を否定する人々がいたということで、パウロは激怒しています。同じIコリント信徒への手紙15章12節から34節です。

「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえみなされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証をしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」

(Iコリントの信徒への手紙15章13節から19節)

なぜこのように死者の復活、キリストの復活を否定するかというとやはり、私達の一般常識、科学的根拠からだと思うのです。

もっというならばこの世の力と呼べるかもしれません。先程申し上げた肉に従って歩む生き方、「血と肉」に従って歩む生き方とそれを私達に強制する力です。そしてこの世の力というのはとても強いのです。ですから、このようにコリントの信徒たちも否定したのです。私達もまたこのような状況に置かれています。

だからこそ、パウロはコリントの信徒たちに注意喚起しているのです。「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。」(Iコリントの信徒への手紙15章58節)

私達はこの世の力に動かされてはいないでしょうか?しっかり立っているでしょうか?主の業に常に励んでいるでしょうか?

そうでないのならば、聖霊が私達の内に働いていただくよう祈りましょう。私達は弱いですが、主は強いのです。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

(ヨハネによる福音書16章33節)

 
 
 

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