「心は燃えていても、物分りが悪い弟子」
2023年4月16日 復活節第2主日
説教題:「心は燃えていても、物分りが悪い弟子」
聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 24章25節-35節(160㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
学校でも仕事場でもいいのですが、「物分りが良い」という人はいるものです。1を聞いて10を知るとまではいきませんが、先生や上司が言ったことを大抵は質問をすることなしに、もしくは質問をするにしても、短く、適切なタイミングで、的を射た質問をします。
そういう人は自信をもって勉強や仕事を取り組めますし、先生や上司にとってもその人の存在というのは都合が良いのです。またその人が質問することによって学校のクラスや仕事場の人々の理解が進むということにもなります。
つまり、クラス全体、職場全体が良い雰囲気になるということです。
三方良しということです。その物分りの良い人は自信を持って勉強なり、仕事なりに取り組むことが出来る。先生または上司も自身が教えていることを理解してもらえて嬉しいわけですし、また周りの人間も気持ちが良い雰囲気で勉強なり、仕事ができるということです。
しかし、「物分りが悪い」人はいるものです。そういう人は自分に自信が持てず、また質問をするにしても悪いタイミングで質問し、要領を得ない質問をしてしまいます。先生もしくは上司も困惑して、イライラしてしまいます。また聞いている周りの人間もイライラして、学校のクラスや職場の雰囲気も悪くなってしまいます。三方悪しです。
ですが、この「物分りが良い人」はそう多くはいません。
もちろん、自分の周りにも、そして皆さんの周りにもこの「物分りが良い人」は多くいないのではないでしょうか?
むしろ私達は平均的な人もしくは「物分りが悪い人」を多く見かける、もしくは見かけてきたのではないでしょうか?私もそうですし、自分自身もこの「物分りが悪い」人だと思っています。ですので、この「物分りが良い人」に憧れてしまいます。「そのようになれたらいいのに」という感情を持っています。
さて、本日の聖書箇所は主イエスのこの言葉から始まります。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
ずいぶん手厳しい言葉です。主イエスが十字架にお掛かりになられる前、地上で伝道をなさっておられた時、ファリサイ派、サドカイ派、そして律法学者たちとよく論争をなされました。その時に主イエスは彼らに手厳しい言葉を使ってよく批判されていました。もっとも彼らもまた主イエスを相当強く批判されていました。
皆さんはその事をご存知かと思います。
しかし、主イエスは御自分の身内、弟子達や主イエスに対して比較的敵意を持たず、好意的な人に対しても度々手厳しい言葉を発せられました。その時の理由というのがこの「物分りが悪い」という事でした。
例えばマタイ15章1節から20節にかけて主イエスとファリサイ派の人々と律法学者たちとの間で諍(いさか)いがありました。主イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わなかった事は先祖の言い伝えを破っていてよろしくないという批判を彼らは主イエスにしてきたのです。
しかし、主イエスは彼らを自分達の先祖の言い伝えを優先し、神の戒めを無視していると非難し、「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」という喩(たと)えをお話になられました。この喩(たと)えのときあかしは「すべて口にはいるものは、腹を通って外に出され、口から出て来るものは、心から出て来るので(様々な悪い思い)、人を汚す」というものです。この事をよく一般の人は単純化して、「人間外見よりも中身ですよね。」「外を磨くよりも、中を磨け」なんて言ったりしています。
ですが、主イエスの弟子達は当初この喩(たと)えがわからず、ペトロが主イエスにそのときあかしを求めました。その時も主イエスはこの弟子の物分りの悪さを嘆(なげ)きこのように仰いました。
「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか」
(マタイによる福音書15章16節から17節)
主イエスの弟子達ではないけれども、主イエスに好意を抱いたであろう、少なくとも敵意を持っていなかったであろう人物としてニコデモという男がいました。彼はファリサイ派の最高法院の議長でありましたが、夜ひそかに主イエスの元を訪れ、再び生まれる(新生)について主イエスに聞いたのですが、その事をニコデモが理解できなかったので、主イエスは彼を非難します。その事はヨハネによる福音書3章1節から21節に書かれています。
主イエスが主イエスの敵であるファリサイ派の人々、サドカイ派の人々、律法学者達ばかりに厳しい態度を取っていたわけではなく、主イエスの弟子達とそして主イエスに対して好意的であった人に対しても「物分りが悪い」という理由で非難をしていたということです。
随分長々と話してまいりましたが、本日の聖書箇所ルカによる福音書24章の25節から26節に戻りたいと思います。なぜ主イエスはこの場面でこのように主イエスの弟子達に言ったのかを説明しなければいけませんね。
それはこの前の箇所、つまり13節から24節を読むとお分かりになると思います。主イエスの二人の弟子達がエマオという村に向かって歩いていたのですが、彼らはその道すがら、ある事を話していたのです。
それは「力のある行いと言葉を示してきた彼らの師である主イエスを彼らの祭司長たちや議員たちが十字架につけて、殺してしまったこと。」
それと「その後に彼らの仲間の婦人たちが主イエスの墓に行ってみたところ、遺体はなく、天使たちが彼女たちに『主イエスが生きておられる』と告げられ、彼らの仲間の弟子達が墓に行ったところ、確かに遺体がなくなっていたのを発見したということ」です。
主イエスはこの二人の弟子達の会話に途中からお加わりになられました。もちろん、彼らはその方が主イエスであると認識できなかったのですが。そして、彼らが主イエスの遺体がなくなっており、天使が婦人たちに「主イエスが復活された」ということを話したのをとても不思議そうに、信じられずに話しているのを受けて、この主イエスの「物分りが悪い」という発言になるのです。
この主イエスの「物分りが悪い」というのはこの場面ではこの弟子達が「預言者たちの言ったことを」信じなかったということです。つまり私達が旧約聖書と呼んでいる書物にこの事つまり、メシアである主イエスが苦しみを受け、復活をするということが示されている。にもかかわらず、主イエスの弟子達はその事を信じなかったと主イエスは非難しているのですね。
ですが、主イエスは非難しっぱなしで終わる方ではございません。だからこそ、27節に書かれているように、聖書全体から彼らに解き明かしをされたのです。主イエスは厳しいだけではないのです。そしてここに主イエスの弟子たちに対する愛があります。
この二人の弟子達はエマオで泊まる予定だったのですが、主イエスはさらに進んでいこうとされるご様子でした。まるで、主イエスにはご復活なされて、天に上られるまでにまだまだおやりになる事があり、お行きになるところもあるようでした。しかし、この二人の弟子たちは主イエスを無理に引き止めて、このエマオで共に家に泊まりました。そして二人は主イエスと共に食事を取りました。主イエスとは分からずに。この食事は単なる食事ではありません。30節です。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」と書かれています。
まず、主イエスがパンを取りとあります。本来主イエスはこのエマオに泊まる予定ではなかったのです。弟子の二人が泊まる予定だったのです。いわばこの席では主人ではなくゲストなのです。ですが、この食事の席では主人として振る舞っています。そして二人の弟子たちはそれを当然の事として認めています。実に不思議な光景です。
もう一つ重要なことはこの食事は聖餐式でもあるのです。ここにはぶどう酒は出てきていません。しかし、主イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人にお渡しになられました。パンを一つのキリストの体と見立て、その体を裂き、渡すことによって、その体を共有することを意味します。私達の教会の聖餐式ではコロナの影響で、既に一つ一つ袋に入れられたウェハースを口にしておりますが、他の教会の聖餐式では実際に焼いたパンを裂き渡しているそうです。私がアメリカにいた時、通っていた教会でも一つの大きいパンから聖餐式を受ける人がちぎって、ぶどう液につけ口に入れていました。
ですから、これは食事でもあるのですが、単なる食事ではないのです、聖餐式でもあるのです。その直後、二人の 弟子たちは彼が主イエスであると気づきます、いや気づかされます。主イエスは直ぐにいなくなられてしまいましたが、彼らはこう話すのです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)
確かに主イエスが彼らに合流するまで彼らの心にあったのは自分達の師であり、イスラエルを解放する希望が殺されたという喪失感、さらに遺体が取り去られたという絶望感、さらに天使が彼らの仲間である婦人たちに告げたという「主イエスがご復活された」というニュースに対する不安感でした。それが主イエスが途中で彼らに加わられ、聖書によってご自身の復活を明かしされた事によって、彼らの心は燃えたと言っているのです。
先週もお話したと思うのですが、私達ナザレン教団はメソジストという教派の影響を多く受けております。その創設者はジョン・ウェスレーという人物でした。
彼は牧師であったのですが、自分が救われたという確信がないままで伝道・牧会をしていた時期がありました。さらに言うならば、彼は3年間のアメリカでの伝道が失敗に終わってイギリスに帰ってきました。
しかし、1738年5月24日にモラヴィア派の集会に出席した時「私は心が不思議に暖かくなるのを感じた」と言い、確信を持って伝道をし始めたそうです。
これをジョン・ウェスレーの回心と呼びます。そして私はこのジョン・ウェスレーの経験と先の主イエスの二人の弟子たちの経験は同じようなものではなかったかと思うのです。
ですが、この二人の弟子たちはいまだに物分りが悪いのではないかと思うのです。たとえ、心が燃えていても。エルサレムに集まって、主イエスが現れた他の弟子たちとすり合わせて、徐々に主イエスはご復活なされたのではないかという結論に達していったように思われます。
ですので、この弟子たちは物分りが悪いのです。そしてそれはとりもなおさず、私達もまた物分りが悪いということです。なぜなら、この弟子たちは私達の写し絵であるからです。私達はこの弟子たちのように、私達の心を、信仰心を燃え立たせるよう主にお願いしたいです。それだけでなく、私達にもっと理解力をお与えください。
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