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「忍耐と希望」

2021年8月22日 聖霊降臨節第14主日礼拝

説教題:「忍耐と希望」

聖書 : 新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章18-25節(284㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 昨年以来の新型コロナウィルスは私達の生活を一変させました。私達はマスクをし、ソーシャルディスタンスを取り、時短のせいで、買い物も以前ほど余裕を持って出来ずにいます。さらに、私達は不要不急の外出と三密をさけなければいけません。そのせいで、実家に帰る事や会食を控えなければなりません。これらは私達にとって必要なことではありますが、なんとなくじめじめした煩わしいものだと感じています。


 さらに、言うならば私達はこれらの煩わしさの中で暮らしているだけでなく、恐れの中でも暮らしているのです。感染する恐れです。もちろん、これまで多くの方々が感染してらっしゃるので、たとえ、感染したとしても、「この状況では誰が感染しても不思議ではない。」「自分たちだけが感染しているわけではない。」と言うことも出来るでしょう。しかし、この新型コロナウィルスの増加のせいで、病床数が少なくなってきています。ですから、感染者でも中程度の方々は自宅療養になるとのことです。もし、私達が新型コロナウィルスに感染したとしても、重傷者でない限り、入院することが出来ないということです。そして、治療薬はあるのですが、中程度以下の患者に対するもので、在庫に限りがあるとのことです。つまり、このウィルスに感染しても、満足に治療も受けられず、死ぬかもしれないという恐怖を私達は持ってしまったわけです。そして、毎日発表される全国の感染者数、特に関東の1都3県(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県)の感染者数、更に言うならば埼玉県の感染者数が私達の抱いているこの恐怖を加速させていると思います。そして、このまえ開かれたオリンピックがこの新型コロナウィルスをこのように拡大させたのではないか、そしてこれから開かれるパラリンピックもさらに拡大させるのではないかという懸念もまた私達の恐怖を加速させています。


 私達はこの煩わしさと新型コロナウィルスに感染するかもしれないという恐れに満ちた生活を忍耐強く送っています。しかし、私達がこうして忍耐強くこの困難に立ち向かっている理由は私達に希望があるからです。いつかこの煩わしさや恐怖から解放され、以前と同じとはいかないまでも、それに近い状態に戻るという希望です。この状態がいつまでも続くとなると流石に私達に耐えることは出来ないと思います。幸いにも、ワクチンの接種率が上がってきたということ、そして治療薬も開発されてきたということを聞きました。こうした事が小さな希望であり、それが大きな希望、即ち、煩わしさや恐怖のない生活に繋がることを祈っております。


 希望があるからこそ苦難に耐えることが出来るということは聖書にも書かれていて、本日の聖書箇所もそうです。ローマの信徒への手紙8章18節を見てみますと「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」使徒パウロはローマの信徒へこの手紙を書き送ったのですが、パウロが言う「現在の苦しみ」とは何でしょうか?その当時ローマの教会はローマ帝国によって迫害されていたのです。その迫害は彼が手紙を書いてから250年以上続いたそうです。とても長いですね。そしてパウロはその苦しみを「取るに足りない」と言いました。もちろん、パウロは根拠もなく「取るに足りない」と言ったわけではありません。「将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、」とパウロは言いました。パウロの言う「将来わたしたちに現されるはずの栄光」とは何でしょうか?これはキリストの再臨の事ではないでしょうか?少し難しいことで言うと、終末論的(エスカトロジック)な事であり、黙示録に書かれている事を指すと思いますので、一読してみるのもいいでしょう。つまり、キリストの再臨によってもたらされる栄光に比べたら、彼らが受けている迫害は大したことではないとパウロは言ったのです。つまり、キリストの再臨とそれによってもたらされる栄光を受けるという希望があるので、ローマの信徒たちは今受けている迫害の生活も耐えることが出来るはずだとパウロは言ったのです。もちろん、パウロはローマの信徒が当時受けていた迫害を軽く見ていたわけではありません。事実彼自身何度も迫害を受けてきました。以前の説教でも申し上げたのですが、パウロはIIコリント信徒への手紙11章23節から28節で彼が受けた困難を語りました。その中に迫害も含まれています。この数々の困難を受けたパウロがこのように言ったのですから、18節のパウロの言葉は非常に重いのではないでしょうか?

 19節から23節でパウロはクリスチャンから被造物へと視点を移します。ここは創世記と関係があります。アダムとエバの物語です。彼らが蛇の誘惑によって主なる神の約束を破り、神との良好な関係が壊れ、罪と死がこの世に入り込みました。罪と死は人ばかりでなく、被造物すべてに及んだのです。


 しかし、被造物は罪と死が入り込んだままでよいと考えてはおらず、神との関係が回復されることを願っているのだとパウロは語りました。この事は19節から23節を見てみればおわかりになるかと思います。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」(19節)「神の子たち」とはキリストの再臨によって栄光を受けたキリスト者たちという意味だと思います。そして注目すべきは「切に待ち望んでいる」という表現です。これは強い「希望」を表しています。「被造物は虚無に服していますが、」(20節)とありますが、これは先程申し上げたようにアダムとエバの行為によって罪と死がこの世に入り込んだ状態を意味します。しかし、同じ20節で「同時に希望も持っています。」と書かれていて、ここにも「希望」が書かれています。そして被造物の具体的希望として「いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」と21節に書かれています。


 被造物はアダムとエバによってもたらされた罪と死によってうめいているとパウロは22節で語りましたが、これもまた被造物の苦しみであり、それを忍耐をもって受け入れているということです。それは被造物が神の子供たちによって回復されるという希望を持っているからなのです。そして、パウロは彼自身も含めたキリスト者たちもまた神の子とされることと体が贖われることを待ち望んでいるということを語りました。24節でまた「希望」という言葉が出てきました。これが大事なのです。この将来における希望です。しかもその「希望」は目に見えるものではなく、目に見えないものであるとパウロは言いました。パウロは強く、この「目に見えるもの」に対する希望は希望ではないとまで言いました。さらに、「目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」と25節でも言いました。


 ここが一般人とパウロとの違いかもしれません。私達はある意味「目に見える希望」を望みます。新型コロナウィルスで言うならば、感染者数の減少、ワクチンの接種率向上、病床数の増大、治療薬の開発、緊急事態宣言の解除です。しかし、パウロが言ったのは目に見えない希望、キリストの再臨と栄光、私達が神の子供とされ、キリストと共に栄光を受けること、そして被造物が神との良好な関係を回復することです。クリスチャンでない方々にとっては荒唐無稽なことかもしれませんが、私達はそれを信じています。そして、それこそがクリスチャンの生き方であると他の聖書箇所も私達に教えています。ヘブライ人への手紙は私達クリスチャンに先行した人々の信仰について語っています。11章です。私達はこのコロナ禍を生きていますし、先程あげた具体的な数字や情報に関して注意を払わなければいけません。科学的根拠も必要です。しかし、私達にはパウロがローマの信徒たちに語った希望を信じる信仰が必要です。そしてヘブライ人への手紙で語られたクリスチャンの先駆者達の信仰が必要なのです。このような信仰を持ちつつ歩んでいこうではありませんか。

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