「悔い改めへの招き」
2021年6月6日 聖霊降臨節第3主日礼拝
説教題:「悔い改めへの招き」
聖書 : 旧約聖書 エゼキエル書 18章26-32節 (1322㌻)
新約聖書 使徒言行録 17章26-32節 (248-249㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
先日、私は何人かの牧師先生の方たちとの勉強会に参加させていただきました。そこである牧師先生が「神は『正しさ』よりも『赦し』を尊ばれる」という趣旨のことを言われました。私は成程とうなずける部分もあるのですが、少しの違和感も感じております。聖書では神のこの「正しさ」よりも「赦し」を強調する話や喩えが多く出てきます。例えば、放蕩息子の話は皆さんご存知かと思います。ルカによる福音書15章11節から32節に書かれています。ある裕福な人に二人の息子がおり、弟が父の存命中に彼がもらうべき財産を与えてくれるよう父に頼み込み、譲り受けて財産を金銭に替え、遠い土地に行き、放蕩三昧の生活をしてしまいます。やがて彼が譲り受けた金銭は尽き、さらに彼が住んでいた所に飢饉が襲い、彼は食べるのにも困り、世話をまかされた豚のエサを食べ、飢えをしのいでいました。やがて、彼は自分の悲惨な現状を覚えつつも、彼の父の裕福な状態を思い出し、自らの行いを悔いて、彼の父の家に戻り、彼の父に対して悔い改めの言葉を口にしました。父はこの息子を赦し、彼のために宴会を開きましたが、父に常に従ってきた兄は面白くありません。自分は父にずっと従ってきたのに、自分勝手に放蕩の限りを尽くした弟が赦されたことが気に入らなかったので彼は立腹して、家に入ろうとしませんでしたが、父が彼をなだめました。この話で強調されていることは兄が考えていた「正しさ」(父の申し付けに従うこと)よりも父の「赦し」だと思います。
しかし、本日の聖書箇所は神の「赦し」だけでなく、神の「正しさ」、神の「厳しさ」を私達に教えてくれています。エゼキエル書18章26節「正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。」ここで強調されていることは不正と死です。正しくないことを行うことの結果は死であると告げています。とても厳しい内容です。もちろん次の27節から28節にかけて前節26節と真逆なことが言われています。「しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」
「自分の命を救うことができる」「必ず生きる」という肯定的な事が書かれています。これが救いです。なぜ彼が救われたのでしょうか?それは彼の罪が赦されたからです。では、なぜ彼の罪が赦されたのでしょうか?それは彼が「悪から離れて正義と恵みの業」をおこなったからであり、彼が「悔い改め、自分のおこなったすべての背きから離れた」からです。この悔い改めと悪から離れるという行動が信徒の間で軽く見られているのではないかなと私は考えています。私達は罪人であったが、主イエスの血潮によって罪を赦されている。私達はキリストの義を着ているそういう考えの元に信仰生活を歩んでいくべきですし、私達の多くはそうだと思います。しかしこの信仰、この考え方が曲解されることがあります。つまり、私達はどんな罪を犯しても赦される、自分がやりたいようにしても、赦されている。そういう考えです。そして他人に酷いことをしてもクリスチャンだからその事を赦すのは当たり前であり、非難することは裁くことだからキリストの教えに反することであり、ファリサイ派の人々と同じであるという主張です。このような主張をする人々は本当の神の赦しを理解しておらず、自分の利益のためにキリストの教えを利用しているのではないでしょうか?彼らに決定的に欠けているものは悔い改めと悪から離れることです。神の赦しの前にこの二つの事が必要なのです。もちろん、これらのことをするために自分の力だけでは出来ないのです。聖霊の力が必要です。それでも人間は完全ではないので、同じ間違いを繰り返してしまうことがあるのです。しかし、悔い改めも悪から離れることもなしに、ただ神の赦しのみを強調するのはキリストの教えを特にキリストの赦しの本当の意味を汲み取っているとは言えないのではないでしょうか?30節から31節にもこのように書かれています。「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」私達が悔い改め、悪から手を引き、神の元に立ち返るためには聖霊の助けが必要ですし、なによりも主イエス・キリストを信じる信仰が必要なのです。この事を覚えていればこそ、神は私達を赦されるのです。本日の最初の聖書箇所の最後の節32節に父なる神の恵み深い赦しの御言葉が書かれています。「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」また本日の聖書箇所ではないのですが、23節にもこのように書かれています。「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」
神に選ばれたイスラエルの民(ユダ王国の民)が神に反逆し、神を捨てました。神はその様な民に預言者エゼキエルを通して彼らの罪を自覚させ、悔い改めさせ、そして神に立ち返らせるよう促しました。しかし、彼らは神に従わなかった。ユダ王国はバビロニア王国に滅ぼされ、彼らはバビロンに捕囚されました。紀元前597年の事です。
本日の第二の聖書箇所は使徒パウロのアテネでの宣教旅行の場面です。アテネは異邦人の都市であり、パウロの宣教する相手は神に選ばれたイスラエルの民ではなく、異邦人です。イスラエルの民は神と特別な関係がありました。彼らの先祖であるアブラハムを神は選ばれました。そして、アブラハム、息子イサク、孫であるヤコブを祝福し、さらに彼らの子孫であるイスラエルの民をも祝福されました。そして、彼らの子孫がエジプトで奴隷の状態でありましたが、神が彼らの先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブを選んだからこそモーセを立て、彼らを奴隷状態から解放しました。民には律法が神から与えられました。しかし、使徒パウロが宣教したアテナに住んでいた人々はこのような神との特別な関係を持っていたイスラエルの民ではないのです。ですから、パウロは同胞であるイスラエルの民に対して宣教するようなやり方で宣教出来ませんでした。
つまり、エゼキエル書では、神との特別な関係にあったイスラエルの民が神に反逆し、神を捨てたが、それでも神は見捨てず預言者エゼキエルを民に遣わし、民の悔い改めと神への立ち返りを促したが、民は拒絶し、国を滅ぼされ、バビロンに捕囚されたという事を言いました。しかし、使徒パウロが宣教していた民は異邦人ですのでイスラエル民の様な特別な関係があったわけではないのです。ですから、異邦人に対して、イスラエルの民に対するように「あなたは神を裏切りましたね。悔い改めなさい」と言っても通じないわけです。
しかし、使徒パウロは神がイスラエルの民の神だけでなく、すべての民の神であるということを本日の第二の聖書箇所である使徒言行録17章26節で述べています。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。」つまり神との特別な関係にあるイスラエルの民でないから異邦人は神に対して何も責任をもっていないということではないということを使徒パウロは言っているのです。そして彼らもまたイスラエル民同様に神から迷い出てしまっているが、神は彼らに対しても悔い改めの機会を与え、神を求めさせ神との正常な関係を持たせようとなさっていると使徒パウロは言っているのです。27節にはこう書かれています。「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」使徒パウロの神が本当に人々を招いているのだということがわかる一文です。しかし、使徒パウロは人々に対して神の招きだけでなく、その前に罪の自覚と悔い改めを彼らに求めました。パウロが指摘したのは偶像礼拝の罪でした。アテネには多くの偶像があり、パウロはその事に対して怒っていたからです。29節から30節です。「神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」
主イエス・キリストはイスラエルの民だけでなく、異邦人の罪のために亡くなられたのです。罪の前ではイスラエルの民であるとか異邦人であるとかは関係ないのです。そして、神は預言者エゼキエルが伝道していた時代にも使徒パウロが宣教していた時代にもイスラエル民、異邦人に関わらず悔い改めと神への立ち返りを求めていました。神は今を生きる私達にも求めているのです。もちろん、私達はキリストを受入れましたが、ともすれば私達キリスト者もまた容易に神から迷い出てしまうことがあるのです。ですから、日々の悔い改めが必要なのではないでしょうか?
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