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「悪と戦うキリスト」

2022年3月13日 受難節第2主日

説教題:「悪と戦うキリスト」

聖書 : 新約聖書 マルコによる福音書 3章20-27節(66㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 主イエスがこの地上で福音を宣べ伝えられていた時、戦わなければならない敵は3つありました。1つ目は悪霊や病魔、2つ目は主イエスの家族を含む近親者、主イエスを昔から知っている故郷の人々、そして3つ目はファリサイ派や律法学者達です。1つ目に関していえば、福音書の様々な場面で主イエスが悪霊を追い出され、病気をお癒やしになったことが書かれているので皆さんもお分かりかと思います。それらの業は主イエスが神から来られたことを証しするものでした。安息日に主イエスが生まれつきの盲人をお癒やしになったことがありました。この癒やされた盲人はファリサイ派の人々の所に連れてこられ、尋問を受けました。ファリサイ派の人々は主イエスを否定したのですが、この癒やされた男は主イエスが神から来られたことを確信していました。この元盲人の言ったことをお聞き下さい。「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」(ヨハネによる福音書9:31-33)

 主イエスによる福音と業は多くの人々を魅了しました。

「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」と本日の聖書箇所の最初に書かれているとおりです。主イエスの2つ目の敵である「身内の人たち」がここに出てきます。この「身内の人たち」は主イエスの家族を含む近親者、主イエスを昔から知っている故郷の人々だと思われます。もちろん、彼らを「敵」と呼んでしまうことに少し抵抗感があります。なぜなら、彼らは主イエスの「身内の人たち」なのですから。しかし、彼らは主イエスを取り押さえに来たのです。    

もちろん、それには理由があります。「『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」と書かれています。主イエスの家族、近親者、そして知り合いなどは昔から主イエスの事を知っていました。それなのに突如として主イエスは福音をお語りになり始め、奇跡である業を行なわれ始めたのです。彼らが主イエスを「気が変になっている」と思ったのは当然といえば、当然なのです。


 これは彼らの無理解と偏見から来るもの。彼らの神に選ばれたものに対しての無理解と昔から知っている主イエスに対する偏見です。そしてこれは極めて人間的なことなのです。しかし、この彼らの無理解と偏見からくる「主イエスを取り押さえる」という行動は主イエスの福音を伝道することの妨げでした。神の御心にそぐわない、神に敵対する行為であると言わざるを得ないのです。ですから、彼らを敵と呼ぶには抵抗感があると言ったのですが、神様の目線でいえば、彼らも敵なのだと思うのです。


 3つ目の敵として挙げられるのは「エルサレムから下ってきた律法学者たち」です。彼らは主イエスを「ベルゼブルに取りつかれている」と言い、さらに「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言いました。

彼らはどうしてこのように言ったのでしょう。   

彼らはことごとく主イエスと敵対してきました。律法を守り、安息日を守ることによって人は救われると主張する律法学者たち、ファリサイ派の人々と彼らの主張する律法を破り、神の御心に従って歩む主イエスは敵対せざるを得ませんでした。彼らにとって主イエスは断じて神から来た者ではなく、ましてや神の御子であってはならなかったのです。もし、そんなことを認めれば自分達の存在を否定することになるからです。先程私は主イエスに癒やされた盲人の話をいたしました。そこでもこの元盲人を尋問したファリサイ派の人々も同じように主イエスを否定しました。しかし、主イエスが行なわれた業すなわち奇跡そのものを否定することは出来ません。ですので、律法学者たちは本日の聖書箇所22節から23節に書かれている理屈を思いついたのです。主イエスを認めない理由は彼らの考え方つまり「律法を守っている自分達は神の前に正しい」「自分達の地位を脅かす存在である主イエスを取り除かなければならない」という保身です。これは罪です。しかし、彼らはそれが罪だと理解できないのです。私達はどうでしょうか?

私達はこの自己保身の罪にとらわれていないでしょうか?他国を侵略するのにもっともらしい理屈をつける国があることを理解しなければいけないと思います。


 主イエスはこの律法学者たちのもっともらしい理屈を粉砕します。人もサタンも内輪もめをしていれば、滅んでしまうと主イエスはお答えになられました。(マルコによる福音書23節から26節)

もちろん、内輪もめというものは人間の世界で起こり得ることです。例えば、日本で言えば幕末時代を思い出してください。鎖国をしていた日本に多くの外国船が来て、徳川幕府は部分的に国を開けざるを得なくなりました。しかし、そのことは幕府の威信を失墜させ、日本を混乱へと誘っていきました。そして、最終的に幕府は大政奉還し、明治政府が誕生しますが、その間多くの戦いがありました。まさしく内輪もめでした。そして明治政府が誕生してやっと外国との交渉に入ることができたのです。内輪もめということがいかに外に対して脆いかということ、そして愚かなことかということを表しています。サタンは人間のように愚かではないと主イエスは言っているのです。ですから人間のように内輪もめなんという愚かなことをしないというのです。もちろん、この愚かでないということは神の賢さとは全く違うものです。いわば悪知恵が働くという意味です。ですから、この律法学者たちの主張は的はずれだということがここでわかるかと思います。


 主イエスはさらに言われるのです。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(マルコによる福音書3章27節)「随分物騒な喩え話だな」という感想を持たれる方もいらっしゃると思います。これは家が悪霊の住処で、強い人が悪霊だと想定して主イエスは仰られていると思います。つまり、主イエスがこの強い悪霊を縛り上げて、家財道具を奪い、さらには家を略奪する(悪霊を追い出す)ということだと思います。この27節だけを見てみると律法学者たちの主張が正しいと思われます。つまり、「主イエスがその強い悪霊より強い悪霊だから追い出せたのだ」という彼らの主張です。しかし、主イエスのご説明は23節から見なければなりません。内輪もめです。つまりサタンは内輪もめはしないのです。ですから、主イエスがこの強い悪霊を縛ったのはさらに強い悪霊や悪霊の頭の力ではなく、さらに強い神の力(聖霊の力)によってです。

 この律法学者たちの主イエスを否定する動機が自己保身であり、罪であることはもう既にお話しましたが、彼らはこの発言をすることによってさらなる罪を犯したのです。つまり、主イエスが聖霊の力で悪霊を追い出しているにも関わらず、「悪霊の頭によって追い出している」と言ったからです。「聖霊」を「悪霊」と言ったのです。主イエスはこう言われました。「聖霊を冒涜する者は永遠に許されず、永遠に罪の責めを負う」(マルコによる福音書3章29節)

 

 主イエスは3つの敵、3つの悪と戦わなければなりませんでした。この中で3番目の悪が最も強力でした。つまり、律法学者達、ファリサイ派の人々の自己保身と嫉妬です。それらは主イエスを十字架の死へと追いやったのです。しかし、この主イエスの十字架の死は私達の罪の赦しとなり、私達の救いとなったのです。私達は主に感謝します。そして、私達は主イエスがこの地上で戦われた3つの悪と罪、とりわけ3つ目の悪と罪に注目します。それは主イエスを十字架へと追いやり、うかうかしていると救われた私達ですら簡単に取り込まれてしまうからです。そうならないよう、主に祈りつつ歩んでいこうではありませんか。

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