「悪と戦うキリスト」
2023年3月5日 受難節第2主日
説教題:「悪と戦うキリスト」
聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 11章14節-26節(128㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
主イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を授けられ、その時に天からの印を受けられました。その後、聖霊に荒野に導かれ、悪魔から誘惑と試みを受けられましたが、それらを退けられました。主イエスにとって洗礼をお受けになられる事と荒野で悪魔から誘惑を受けこれを退けることは、これから伝道をするために必要な通過儀礼、イニシエーションであったという事は、この前お話したとおりです。別の言い方で言えば、準備や研修にあたりますね。
私はこの浦和教会に派遣される前にナザレンの神学校で学びつつ、神学生として教会に派遣され奉仕をいたしました。この神学校での学びと派遣先の教会での奉仕の経験がなければ、牧師として、教会で伝道・牧会をすることは出来ません。もちろん、この学びと経験があったからといって、伝道・牧会が満足に出来るという保証はありません。実際この浦和教会に派遣されてから、教会員の皆さんに様々な事を教えていただき、経験を積みつつ、そして何よりも神の導きによって、何とか伝道・牧会をさせていただいている次第です。神に感謝しますし、皆さんに感謝しております。
さて、主イエスがこの地上で伝道をなさっておられた時、おもに三つの事をなさっていました。福音を述べ伝えること(説教)、奇跡、そして弟子を集め訓練することです。本日の聖書個所に書かれていることは主イエスがなされた奇跡とその後に起こった主イエスとある人々との論争です。主イエスはある人々との論争によっても福音宣教をされ、真理を解き明かされましたのでこれは説教です。ですので、本日の聖書個所は主イエスが行われた奇跡とそれに続く説教ということです。
「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。」(ルカによる福音書11章14節)
とあります。主イエスが奇跡を行われたということで、見ている人々が驚いたということです。ここで重要な事が二つあります。
一つは「悪霊が出ていくと、口の利けない人がものを言い始めた」という事の意味についてです。主イエスが奇跡を行ったという事でしょう。そしてこの奇跡を行うことによって主イエスがただの人ではなく、神の御子であるという事でしょう。
皆さんはそのように考えられると思います。確かにそうです。しかし、もう少し深く主イエスが行われたこの奇跡の意味を考えたいのです。
口が利けないということはどういう事でしょうか?「障害があるのかな。気の毒だな。」というふうに私達は思うかもしれません。ですが、もう少し考えてみますと、人とのコミュニケーションが制限されるということと、口に出して神を賛美することが出来ないということです。主イエスが生きていらした時代はこの口が利けないことも含めてですが、障害を持っている人々は差別される時代でした。ですから口が利けないということはただ単にその事自体で彼が人から孤立していたというだけでなく、差別によって孤立していたということが想像されます。彼は人から孤立し、賛美することが出来ないので神からも孤立していたのではないでしょうか?それがどれほど悲しい事だったのでしょうか。
私達キリスト者は神との関係そして人との関係で良好であることが望ましいと思うのです。主イエスは律法の中で一番大切なものは何かと問われ、このように仰いました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」
(マタイによる福音書22章37節)
そして2番目に大切なものとして「隣人を自分のように愛しなさい」ということを挙げられました。
(マタイによる福音書22章39節)
また、使徒信条にもこのように書かれています。「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」
そして私達自身交わりが大切だということはよく分かっていますよね。この3年間コロナで礼拝後、なかなか交わりの時を持ててはいませんが、少ないながらも皆さんに準備していただいて、ちょっとした食事会を持つことが出来ました。最近では稲葉先生達とでしたね。本当にうれしかったですし、準備をして頂いた方々に感謝しております。
悪霊に憑かれ、口が利けない人はこのような楽しい思いとは無縁だったのです。これは人が罪の状態にあるということなのです。創世記に書かれていることですが、アダムとイブが神に逆らって、神との良好な関係を壊しました。そして罪が私達の中に入り込みました。それ以降さらに様々な罪を私達は神に対して犯してきたのです。神との良好な関係の喪失、他の人々との良好な関係の喪失は私達が罪にある状態なのです。それはウクライナでの戦争の状態、そして最近の犯罪を見ればおわかりかと思うのです。
主イエスは悪と戦い、このような罪の状態にある人を解放するために来られました。そして奇跡によって悪霊を退け、口が利けない人を口が利けるようにされたのです。
ある人々はこの奇跡に驚嘆しましたが、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」という者や主イエスを試すために天から何かしるしを見せるよう要求する者もいました。
主イエスがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると主張したのはファリサイ派の人々です。本日の聖書個所には書かれていませんが、同じことが書かれている別の聖書個所マタイによる福音書9章34節にその事が書かれています。主イエスとファリサイ派の人々が度々論争をされているということを皆さんはおわかりと思うのです。主イエスはこのファリサイ派の人々の主張に対して、例えサタンの国であっても内輪もめをしてしまえば滅んでしまうと反論します。17節から18節に書かれています。
そして主イエスはさらに20節でこのように仰いました。
「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」
ここに出てくる「神の指」とは出エジプト記8章15節にも書かれています。イスラエルの民をなかなか去らせないファラオに対して様々な災いを神はエジプトの国にもたらすのですが、エジプトの魔術師もこれに対抗しました。しかし、最後彼らは対抗しきれなくなり、「これは神の指の働きでございます。」と言って諦(あきら)めました。ですので、この「神の指」とは「神の不思議な力」と捉えることができます。さらにマタイによる福音書12章28節では「神の指」は「神の霊」とされています。いずれにいたしましても、主イエスが神から来ていて、神の力、神の霊によってこの奇跡を行っているということを信じるのであれば、神の国に入ることが出来るということを主イエスはこの20節で仰いました。
つまり「主イエスが悪霊の頭で悪霊を追い出している」と主張したファリサイ派の人々や主イエスを試すために天からのしるしを示せと要求した人々は神の国に入ることが出来ないということです。
主イエスはさらに説教を続けます。21節から22節です。
ここに出てくる武装して自分の屋敷と自分の持ち物を守っている人というのは一見すると良い人だろうと思ってしまいます。多分「屋敷を守る」とか「持ち物」という言葉の印象で私達はそのように捉えてしまうのでしょう。しかし、この人は悪霊です。そして持ち物というのは罪に囚(とら)われた人々です。そして「もっと強い者」とは神であり、主イエスです。主イエスがこの悪霊に打ち勝ち、罪に囚(とら)われた人々を解放するということです。
ファリサイ派の理屈、つまり悪霊よりもっと強い者として悪霊の頭によって追い出しているということは一見すると主イエスのこの主張を裏付けているように見えますが、主イエスがこの前に仰った「内輪もめ」の説教で否定されました。悪霊ではない、悪霊より強い者とは何か?神ではないか?主イエスではないか?そして主イエスに属する私達ではないか?ということなのです。
そして主イエスは23節で決定的な事を仰いました。
「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
これは主イエスがこういう事実を述べられているということではないのです。「あなたはどっちにつくのですか?」と主イエスは問うているのです。
主イエスはこの地上での伝道で二つの悪と戦っています。
一つは悪霊です。もう一つは「主イエスが悪霊の頭、ベルゼブルによって悪霊を追い出している」と主張するファリサイ派の人々、そして「天からのしるしを示せ」と主張する人々です。この人々は罪に陥(おちい)っています。彼らの動機はなんでしょうか?ファリサイ派の人々は妬み(ねたみ)ですね。自分たちは悪霊を追い出すことが出来ない。しかし主イエスは奇跡によってそれをすることが出来る。その事実は否定することが出来ない。だから神ではなく、悪霊の頭によってその事をなしていると主張したのです。
この妬みの罪ですね。「天からのしるしを示せ」と主張する人々もまた神を試し、神を侮(あなど)るという罪を犯しています。奇跡はマジックショーではないのです。だからこそ彼らもまた悪なのです。
あなたはどちらにつきますか?主イエスにつきますか?それともこの悪、この世、偶像につきますか?この問いは旧約聖書時代に信仰に生きた人々ヨシュア、エリヤ、多くの預言者、主イエスがイスラエルの民に問いかけてきたことです。そして今も私達は問われているのです。
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