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「損失と利益」

2020年10月18日 10月第3主日礼拝 

説教題:「損失と利益」

聖書 : 新約聖書 フィリピの信徒への手紙 3章7-11節(364-365㌻)    

説教者:伊豆 聖牧師


損失と利益と言うと何か商売に関わることを私達に思わせるので、説教で話すにはふさわしくないのではないかと考える方もいらっしゃるかと思います。ですが、聖書にはこの商売または金銭に関わる話がよく出てきます。金持ちとラザロの話(ルカ16:19-31)、金持ちの青年の話(マルコ10:17-22)、愚か者の金持ちが自分の所有している畑の収穫が多くて蔵に収まりきらないので蔵を建て直して大きくしようとしたら、天使が彼の前に現れ、彼の生命がその日の夜に取られることを告げるというこの金持ちの愚かさを示す話(ルカ12:13-21)です。いずれの話でも金持ちが自分の人生で神より金銭の方を選んでしまう話です。

もちろん、本日の聖書箇所は自分の利益のために神を選ぶか金銭を選ぶかという単純な話ではないのですが、自分の人生、そして信仰生活で何を選んでいくかという事では先の話と共通しているのではないかと思うのです。本日の聖書箇所7節でパウロはフィリピの信徒たちにこのように言います。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失とみなすようになったのです。」ここでパウロの言う「わたしにとって有利であったこれらのこと」とは何でしょうか?それらは5節、6節に書かれている「生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人、律法に関してはファリサイ派の一員、律法の義については非の打ち所のない者」という事です。パウロはヘブライ人です。そしてヘブライ人は神から選ばれた民です。ですので、パウロにとってヘブライ人である事、その中のベニヤミン族の出身である事、律法に精通しているファリサイ派に属し、律法の義について完全であるという事はパウロが当時のヘブライ人の社会で生きる上では有利な事であり、パウロの誇りでありました。しかし、パウロはこれらの事をキリストのために損失であると考えました。パウロにとってこれらの事とキリストが相容れないということではないでしょうか。

3節を御覧ください。「わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。」とパウロは言っています。パウロが誇りとしていた事、パウロがヘブライ人の社会で生きていく上で有利となる事は肉に頼ることであり、それは彼にとってキリストの故に損失となった。それはパウロがいままで彼が誇りとしていた事よりもキリストを選んだということではないでしょうか。

8節でパウロはさらにこの様に言います。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。」パウロはダマスコ途上で天からの光に打たれ、目が見えなくなり、主イエスに出会い、主を伝える器とされました。(使徒9:1-22)そして主との出会い、そして主による導きを通して主との交わりをしてきました。主との出会いと主との交わりによってパウロの主に対する信仰が育まれてきたのだと思います。パウロが言う主キリスト・イエスを知ることとは主との交わりを通して主への信仰が育まれること、成長することです。パウロはその過程で主イエス・キリストのすばらしさを経験したのです。だからこそ、パウロが持っていたすべての有利なもの、誇りを塵あくたと呼んだのではないでしょうか。パウロはキリスト・イエスを宣教し始めた時、彼が持っていたすべての特権を失いました。しかし、そのことは彼にとって損失ではなく益であったのです。なぜなら、そのおかげで、彼は心置きなくキリスト・イエスを伝えられるのですから。パウロの回心はパウロを劇的に変えました。パウロの義に対する考え方も大きく変わりました。回心前、パウロは「律法から生じる自分の義」を信じていましたが、回心後は「キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」を信じるようになりました。これこそがパウロの救いです。そして私達の救いでもあります。私達は回心前のパウロの様に肉に頼ってはいないでしょうか?プライドをもっていないでしょうか?私達はそれらのものをパウロが言うように塵・あくたという事が出来るでしょうか?もちろん、パウロはこの手紙を書いている時でもまだ自分がキリストを得た、キリストの内にいる者と認められたと言っているわけではありません。なぜなら、パウロは「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」と言っているからです。(フィリピ3:8-9)さらに、パウロはこう言っています。「わたしはキリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、なんとかして死者の中からの復活に達したいのです。」このことからもわかるように、パウロは道途上でした。しかし、いままでの間違った方向、つまり肉に頼るから霊にたよるキリストに頼る方向に向かって走っていたのです。私達もパウロと同じ様に道途上ではありますが、信仰による神からの恵みによって、そして霊に従って走ろうではありませんか。

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