「故郷での拒絶」
2021年1月10日 降誕節第3主日礼拝
説教題:「故郷での拒絶」
聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 4章22-30節(108㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
主イエス・キリストは悪魔からの誘惑という試練を退けた後、ガリラヤ地方に帰られ、伝道をなさっていました。そして、イエスはガリラヤ地方にある故郷のナザレにも行かれました。安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとし、お立ちになるのですが、その時、主イエスに渡された巻物は預言者イザヤの書で、その中で目に留め、お読みになられた箇所がルカ4章18節から19節に書かれています。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」 主イエスはこの箇所をお読みになり、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言し、説教を始められました。本日の聖書箇所は主イエスの説教に対する彼の故郷ナザレの人々の反応からです。ルカ4章22節には、こう書かれています。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」 「皆はイエスをほめ、」とあり、一見するとこれらの人々の言葉は良いように見えますが、彼らの言葉「この人はヨセフの子ではないか」に注目してください。彼らは主イエスが幼い時から彼を知っており、彼の兄弟、彼の両親も知っていました。ですので、大工ヨセフの子どもである主イエスがこのような恵みに満ちた素晴らしい説教をなさったことが信じられなかった。そして、信じようとしなかったのではないでしょうか。つまり、色眼鏡で主イエスを見てしまったのです。そこには、主イエスに対する一定の評価つまり「ほめる」ことはあったにせよ、御言葉を受け入れる素直さがなかったと考えられます。素直さ、へりくだりというものは人が御言葉を受け入れ、救われるためには大事な事です。イスラエルの民が何度も主なる神に逆らい、神を憤らせ、罰を受けてきた事を思い出して下さい。「この人はヨセフの子ではないか」という言葉には主イエスの故郷の人々が神の言葉を受け入れない頑なさが表れているのです。 主イエスは23節で彼らが主イエスに期待していることを言い当てます。「医者よ、自分自身を治せ」ということわざはルカ6章39節に書かれている「盲人が盲人の道案内をすることができようか」という主イエスが仰られた御言葉そしてマタイ7章3節から5節に書かれている御言葉に表されているように、人を治療するには治療する自分がまず、健康でなければいけないという事です。しかし、主イエスは故郷の人々はこのことわざを曲解していると言っているのです。人を治すためには医者は自分が健康でなければいけない。だから、優先順位は自分が先であり、他の人は後である。主イエスがカファルナウムでいろいろと奇跡などを行ったと聞いているが、だとしたら彼の故郷であるナザレでそれと同程度、いやそれ以上の奇跡や働きをするのは当然だという理屈です。ここに人々の傲慢さがあり、論理の操作といいますか、英語で言えばマニピュレーションがあります。もちろん、主イエスはカファルナウムで様々な奇跡を行った事でしょう。聖書にも主イエスが行った奇跡が書かれており、それらは病気を癒やしてほしい、悪霊を追い払って欲しいという人々からの願いに応えたものでした。ですから、主イエスに奇跡を求めること自体は悪いことではないと思うのです。しかし、問題は動機にあります。主イエスに病気を癒やして欲しい、悪霊を払って欲しいと願った人々には必死さがありました。ですが、この故郷の人々が主イエスに奇跡を行ってほしいと思っていた動機は何でしょうか?ナザレは故郷なのだからその故郷のために何かするのは当然だという傲慢さ、故郷でないカファルナウムであんなに奇跡を行って、故郷のナザレで何もしないのはずるいという嫉妬心ではないでしょうか。このような感情は神の御心にそぐわないと主イエスが判断しても当然ではないでしょうか。 ですから、主イエスは24節から27節で彼らが主イエスに期待している事をきっぱり否定しました。主イエスは24節で「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」と言われました。「はっきり言っておく。」この一言に主イエスの決意の表れがわかります。そして、主イエスはご自身を預言者に例えており、次の25節から26節では預言者エリヤを27節には預言者エリシャを例に挙げています。ここで述べられている預言者エリヤの事は列王記上17章1節、8節から16節、18章1節に書かれており、預言者エリシャの事は列王記下5章1節から14節に書かれています。預言者エリヤはその時代に飢饉が起こった時、イスラエルのやもめの所には遣わされず、シドン地方のサレプタの異邦人のやもめの所に遣わされ、そのやもめは預言者エリヤを養いました。そのやもめが預言者エリヤを養うことができたのはそのやもめが 作る食べ物の材料の壺の小麦粉と瓶の油とが雨の降らない3年6ヶ月の間になくならなかったからです。これは神の奇跡と考えられます。また、27節にあるように、預言者エリシャは異邦人であるシリア人ナアマンの皮膚病を癒しました。当時イスラエルには重い皮膚病を患った人が多くいたにもかかわらずです。ここに神のご計画があるのです。神は必ずしも常にユダヤ人を優先するということではないのです。神が私たちに求めているのは御言葉を素直に受け取ることなのです。確かに神はアブラハムを選び、アブラハム及び彼の子孫を祝福するという約束をされました。しかし、この考え方がユダヤ人は異邦人に対して優先するという考え方を生んだのだと考えます。そして、それはとりもなおさず、故郷ナザレはカファルナウムより優先するという考えにもなっていくのです。洗礼者ヨハネの言葉を思い出してください。ルカ3章8節です「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」 主イエスの言葉を聞いた人々は怒り、彼を殺そうとしますが、主イエスは彼らの間をすり抜けて行きました。預言者エリヤの例えとは食物で養われることを表しますが、主イエスの場合であれば、主イエスの御言葉に養われることを表します。思い出して下さい、主イエスがご自身を天からくだってきたパンであると言い、ご自身が渇くことのない水を与えると言ったことを。また預言者エリシャは主イエスが与える癒しを意味します。そして、主イエスの御言葉に養われる事そして主イエスが与える癒しがこのナザレの人々から去った事は主イエスが人々の間をすり抜けていった事で明らかです。なぜ、こういう事態に至ってしまったのか。それは彼らに素直さがなかったからです。私たちに素直さとへりくだりを与えていただくよう神に祈ろうではありませんか。
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