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「故郷での拒絶」

2023年1月22日 降誕節第5主日

説教題:「故郷での拒絶」

聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 4章22節-30節(108㌻) 

説教者:伊豆 聖牧師


 人から批判されるという事は嫌なものです。もちろん学校、会社、国会などで議論をする事があり、その議論の場で批判をするもしくはされるということは多々あります。ですが、極力議論をしている当人を批判することは避け、問題そのものの批判をした方が建設的だと思います。しかし最近のインターネットやソーシャルメディアの普及で顔が見えないことを良いことにエスカレートした批判、すなわち誹謗、中傷がされ、された当人はそれを行った人々を「アンチ」と呼び誹謗し返す。そういった言葉の暴力の応酬が続き、訴訟にまで発展するというのは嘆かわしいことです。

 さて、本日は主イエスがお育ちになられたナザレの会堂で預言者イザヤの書をお読みになられ、その後お話を始められた時に起こった出来事です。

「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」

(ルカによる福音書4章22節)

ここでは主イエスに対して人々の肯定的な感情と否定的な感情が表されています。「イエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて」とあります。これはいかに主イエスがなされた説教が素晴らしかったかということを物語っています。しかし、人々の口から出てきた言葉は何でしょうか?

「この人はヨセフの子ではないか」です。主イエスは故郷で説教をされていますが、人々は主イエスの事もまた家族の事も知っています。主イエスがどこかの学校で専門的な知識を学んだこともないということを知っていたわけです。この様な言い方をすると今の時代批判、もしくは非難されてしまいますが、彼らはこう言ったのです。「大工ヨセフのせがれイエスがこんな素晴らしい知識を持っているわけがない。こんな素晴らしい説教が出来るわけがない。大した学校に行ったわけでもないのに。」

もちろん彼らは現実に主イエスが素晴らしい説教をされている事を聞いているのです。しかし、彼らはそれを否定しているのです。

ここに彼らの不信仰があります。その不信仰は彼らの主イエスと共に育ってきた経験、知識です。せっかく素晴らしい御言葉を語られた主イエスをそのせいで否定してしまっているのです。

もし、彼らがそういった事なしに、主イエスの言葉を聞いていたらどうだったでしょうか?彼らは素直に主イエスの御言葉を受け入れていたでしょう。これは私達にとっても大切なことです。私達も彼らのように予備知識で人を判断してしまうことがあります。

バイアスがかかり、人を色眼鏡で判断し、相手の肩書等で、その人の言葉を判断してしまうのです。その相手の言葉がスピーチであればまだしも御言葉をバイアス、色眼鏡、話している相手の肩書で聞いているとしたら大変危険なことではないでしょうか?

主イエスは別の聖書個所で種蒔きの例えをお話になられています。

同じくルカによる福音書ですが、その例えの説明も含めますと8章4節から15節です。その中で主イエスは御言葉を聞いてもそれを人々が受け入れない原因、人々を受け入れさせない障害を色々と述べられています。ですが、本日の人々が主イエスに抱いたバイアス「この人はヨセフの子ではないか。」という言葉に表されているのですが、それもこの御言葉を人々が受け入れない原因、障害であると思います。

 さて、この人々の不信仰と拒絶に対して主イエスはこのように仰ったんです。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」

(ルカによる福音書4章23節)

「医者よ、自分自身を治せ」とは医者の不養生という言葉があるように他人の病気を診療することにかまけて自分自身の健康をおろそかにしてしまうことを指しますね。それから派生して人を教える者は自分もしっかりしていなければならないということに繋がるわけです。さて、この場面では「カファルナウムという別の場所で奇跡などを行ったのだから、地元でも奇跡を行うのは当然だろう。」という事ですね。もちろん、彼らは実際にそう言ってはいませんが、主イエスは彼らの心を見抜いているわけです。

 ここまで見てきて何が問題でしょうか?彼らの態度です。

彼らは目の前で素晴らしい説教を聞いているにも関わらず、不信仰によって主イエスを否定し、さらに主イエスの故郷であるという理由だけで主イエスがそこで奇跡を行うことが当然だと思っている。ここに罪があるのです。

 ですから、主イエスは24節で「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と述べられ、さらに25節から27節で旧約聖書時代の預言者が自分の民の所に遣わされず、他の人たちの所に遣わされ彼らを救ったことを述べられました。これらは主イエスが間接的に故郷ナザレでは奇跡を行わないことを示しています。それを聞いた彼らは怒り、主イエスを追い出したばかりか崖から突き落とし殺そうとしました。本日の聖書個所はルカによる福音書以外にも書かれています。マタイによる福音書13章53節から58節、マルコによる福音書6章1節から6節です。ですが、ここまで詳細にそして主イエスが殺されそうになったということは書かれていません。ただ人々の不信仰と奇跡が行われなかったということが書かれています。ですから今回この話が詳細に書かれたルカによる福音書を今回の聖書個所に選んだのです。

 話を戻しますと、なぜ人々は主イエスに対して怒り、主イエスを拒絶し、そして殺そうとまでしたのでしょうか?彼らはまず自分たちは神に選ばれたのだという意識を持っていました。自分たちは神に救われるが異邦人は神に救われないと考えていたのです。

ですが、主イエスは旧約聖書時代に神がイスラエルの民よりも異邦人の方を優先したという事実を指摘されました。この事で彼らは主イエスに対して怒っていたのです。彼らは自分たちが神に選ばれた民だと思っていました。彼らの先祖であるアブラハムやモーセを引き合いに出してそう主張してきたのです。ですが、彼らは何度も神に逆らってきました。そして主イエスがご指摘されたように神がイスラエルの民より異邦人を優先されたということがあるのです。ですが彼らはそれを否定したのです。事実であるにも関わらず。人は自分にとって都合の悪い事は事実であっても否定するものです。見たいものだけ見る、聞きたいものだけ聞くということです。そして、それに反することは何が何でも否定するということです。

図星をつかれて怒り狂うものです。使徒言行録7章でステファノはユダヤ人達が神に逆らってきた罪を説教で指摘しましたが、彼らはステファノに怒り狂いステファノを殺してしまいました。これもまた図星をつかれたからです。

 本日の聖書個所では故郷で主イエスを拒絶した人々は不信仰によって主イエスを受け入れず、それでいながら高ぶって主イエスが何がしかの奇跡を行うのが当然だと考えていました。さらに、彼らの奥底には自分たちは神に選ばれた特別な存在であるという特権意識も持っていました。これらはすべて罪です。そして、主イエスは彼らの罪をご指摘されましたが、彼らは主イエスに対して怒り、殺そうとしたのです。これらの罪が彼らに主イエスを殺そうとさせたのです。これらの罪が最終的に主イエスを十字架に追いやりました。私達もこれらの罪を自覚しなければなりません。なぜなら、私達も簡単にこの様な罪に陥ってしまうからです。そして悔い改めが出来るよう主に祈ろうではありませんか。主イエスは私達の罪のために死なれました。そして悔い改めた後、主イエスを信じる信仰に立ち、歩んでいけるよう主に祈ろうではありませんか。

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