「救済の約束」
2022年11月13日 降誕前第6主日礼拝
説教題:「救済の約束」
聖書 : 旧約聖書 出エジプト記 3章1節-15節(96㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
聖書の中によく出てくる言葉に約束と契約があります。何かこう難しいと言いますか、とっつきにくく、人を縛るような言葉に感じられます。聖書には他によく出てくる言葉として、恵み、信仰といった言葉がありますが、私達はそちらの方は馴染みがあり、親しみやすく感じられると思うのです。私達がこのように感じる理由の一つには新約聖書では恵みと信仰とが強調され、約束と契約とがあまり強調されていないと思ってしまうところにあるのかもしれません。約束と契約に関わりのある言葉として律法というものがあります。これは神がモーセを通してイスラエルの民に与えられたもので、彼らが守るべき規範でした。長い歴史の中で彼らはこの規範に彼らの解釈や伝統を加え、それを律法として守らなければならないとしてしまったのです。そしてその事を指導していたのが、ファリサイ派の人々、律法学者達でした。その事に反対したのが主イエス・キリストでした。主イエスは神の律法、神の御心に立ち返るべきとして彼らの律法を否定したのです。
ですから、主イエスを信じている私達は律法とそれに関連する約束や契約という言葉を聞くと否定的イメージをもってしまうのかもしれません。
私達が約束や契約という言葉を聞いて、あまり良いイメージを持たない理由は、もしかするとあまり欧米に比べると日本社会では契約というものが強調されていないのかもしれません。もちろん、日本の一般社会において会社と会社の間での取引、会社と個人とのやり取り、会社と役所との間で契約を結ぶことはよく見られる事です。教会も駐車場を会社と個人に貸し出す時、契約書を交わしましたし、私たちの教会規則を変更する時に教団本部、埼玉県の学事課、法務局に書類を提出しました。ですが、何年間かアメリカに住んでいた私にとってやはり、日本に比べるとアメリカの方が契約社会であると感じます。ですので、私たちはどうしても約束とか契約という言葉を聞くと否定的に捉えてしまうのかもしれません。約束はそうでもないかもしれませんが。
ですが、この約束と契約という言葉は聖書全体を通してみれば必ずしも否定的なものではないのです。本日の聖書箇所はモーセの召命です。モーセはこの時、しゅうとであるミディアンの祭司の羊を飼っていたのですが、その群れを追って荒れ野の奥に行き、神の山ホレブに来ました。そこで火に燃えているのに燃え尽きない柴を見つけ、何だろうと近づくと柴の間から主がモーセを呼びかけられたのです。まず初めに主は「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」(出エジプト記3章5節)と仰いました。さらに、続けて「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(出エジプト記3章6節)と仰いました。まず主は主がおられる場所、そして主ご自身が聖であることをお示しになられました。その後、ご自身が何者であるのか、つまりモーセの先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブの神であるということをお示しになられたのです。
そして、8節から9節で主はイスラエルの人々がエジプトで奴隷の状態であって圧迫されているが、彼らを救済し、土地を与える約束をされたのです。
なぜ、主はそのような事を仰ったのでしょうか?それは主がモーセの先祖、イスラエルの民の先祖、父祖と呼ばれている人々と約束をしたからです。主がアブラハムと最初にされた約束は創世記12章1節から3節に書かれています。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」
これはアブラハムとアブラハムの子孫を祝福するという主からの一方的な恵みの約束、契約なのですね。そしてアブラハムは行き先もわからなかったが従いました。これは彼の信仰です。
また、創世記12章7節では主はアブラハムにカナンの土地を与える約束をいたしました。続く8節ではアブラハムはそこに祭壇を築いたと書かれていますので、これも彼の主に対する信仰の表れと取れます。
さらに、主は創世記13章14節から17節でアブラハムに土地の取得と彼の子孫の繁栄を約束し、アブラハムは18節で祭壇を築くのです。さらに主は創世記15章1節から5節で土地の取得と彼の子孫の繁栄(直近で彼の子供の誕生)を約束されました。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と6節に書かれています。これもまたアブラハムの信仰であり、それを主は認められたのです。
さらに主はアブラハムの前に現れ、彼の子孫の繁栄とカナンの土地の取得を約束されました。(創世記17章1節から14節)
アブラハムが息子イサクを捧げるよう主から命じられ、それに応じようとした時も主はアブラハムに彼の子孫の繁栄を約束されました。(創世記22章15節から18節)
主はイサクの前にも現れて、彼に彼自身と彼の子孫の繁栄と土地の取得を約束されました。(創世記26章2節から5節)実際に彼と彼の家族は主に祝され繁栄しました。
イサクの息子であるヤコブもまた主に祝されました。そして主は彼の前にも現れ、土地の取得と子孫の繁栄を約束されました。(創世記28章12節から16節)彼は夢で天使が梯子を上り下りしているのを見て、その約束を耳にしました。彼は目を覚ました後、枕にしていた石に油を注ぎ、それを記念碑として立て、その場所をベテル(神の家)と名付けたということです。これもまたアブラハムが祭壇を築いたことと同じ意味であったろうと考えられます。つまり、ヤコブの信仰です。17節にはこのように書かれています。「恐れおののいて言った。『ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。』」
長々と話してまいりましたが、主はアブラハム、イサク、ヤコブに彼らの子孫の繁栄とカナンの土地の取得の約束をしてきたのです。これは主からの一方的な恵みであり、祝福です。そして彼らは主の約束、契約を信じました。それは彼らの信仰です。約束、契約というものが何も否定的なものではなく、主の恵み、祝福、そしてそれらを受け入れる、信じるアブラハム、イサク、ヤコブの信仰と結びついている素晴らしいものであるということがお分かりになると思います。
さらに、重要なことは主がこのイスラエルの民の父祖たちと交わした約束を忘れていないということです。すなわち、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫の繁栄とカナンの土地の取得の事です。この父祖たちとの約束は出エジプトの遥か前、400年ぐらい前でした。ですが、主は忘れていなかったのです。そして、主はご自身が選ばれた民がエジプトでひどい目にあっていることをご覧になり、彼らを救済する決心をなされたのです。
主は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」ということをお示しになり、イスラエルの民との関係を示し、約束を忘れない、誠実な神であることをお示しになられました。また7節から10節で主は憐れみ深い神であることをお示しになられました。
主は10節から12節でモーセを通してイスラエルの民をお救いになられることをお示しになられました。もちろん、主ご自身で、単独でお救いになられることも可能だったでしょう。しかし、主は人を介して救われるのです。それは主が私たちとの関係を重要だと考えられているからではないでしょうか?福音伝道もそうです。なぜ、私達に福音・伝道を担わせるのでしょうか?主ご自身が行われればよいのではないでしょうか?ですが、主は私たちを通して福音をお伝えになられようとしているのです。
モーセを召命した後、主はイスラエルの民をエジプトから脱出させました。しかし、彼らは主に救われたにもかかわらず、度々主に逆らったので、ヨシュアとカレブ以外は約束の土地に入ることが出来ずに、40年間の荒れ野での生活で死に絶え、彼らの子供の世代が入ることとなりました。しかし、彼らもまた何度も主に逆らい続け、主から罰せられました。ここで分かることは主は契約、約束に忠実であられるのですが、イスラエルの民は不忠実であったということです。そして、それは私たちにも言えることなのです。
彼らが主に逆らったのは、困難が訪れた時、例えば、食料や水がなかった時、誘惑にあった時、例えばモーセ、アロン、ミリアムばかりがリーダーシップを取っていることに対して不満を持った時、不安だった時、モーセが一人シナイ山に入り、主から十戒を受け取るためにしばらく帰ってこなかった時や敵の土地を視察し、そこで巨人を目の当たりにし、恐れをなした時などです。ここに彼らの弱さが表されるのです。また、彼らが度々偶像礼拝をしたのですが、彼らは自分自身が好き勝手に生きたいから自分の目に都合のよい神々を選んだのです。手っ取り早く彼らが入った所の土地の土着の神々を崇拝したのです。これも彼らの弱さです。そして彼らは自分たちの弱さによって主との約束を破ったのです。しかし、主はずっと誠実でした。
私たちはどうでしょうか?私たちも彼らの弱さを持っているのです。私は先程主イエスが律法を破棄されたと言いましたが、それはファリサイ派や律法学者達が自分たちの都合によって解釈した律法です。主ご自身はこの様に仰られています。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」
(マタイによる福音書5章17節から18節)
先程申し上げたように、私たちも彼らの弱さを持っているのです。その弱さによって神の律法を破ってしまうのです。さらに、悪いことに新約聖書の都合のよいところだけ読み、『主イエスは律法を廃止するために来たのだから、神の律法を破っても良い。』として正当化してしまう危険性すらあるのです。神の律法を破るとは神との良い関係を壊すことです。ですから、もう一度この主の救済の約束、契約の意味を考えなくてはいけません。主の約束、契約は尊重すべきものであり、恵みであり、そして祝福です。そして私たちは主の約束、契約を通して信仰が養われるということです。さらに、私たちの弱さを自覚し、その弱さによって主との関係が壊れてしまっても、律法は破るべきものだからそれでよいという自己正当化を捨てることです。そして自分の弱さを認め、主に立ち返るよう、主に、聖霊様に祈ることです。
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