「教えるキリスト」
2024年2月4日 公現後第5主日
説教題:「教えるキリスト」
聖書 : ヨハネによる福音書 8章21節-36節(181㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
主イエスは洗礼をバプテスマのヨハネからお受けになられ、荒野で40日間の悪魔からの試みを受けられました。弟子達を集められ、カナの婚礼では奇跡も起こされました。そして地上での宣教をし始め、病人を癒やし、悪霊を追い出すといった奇跡も行い始めました。
しかし主イエスが宣教し始めると、大勢の人々がそのみ教えを受け入れ始めるのですが、同時に反対勢力も生まれてきました。特にファリサイ派、律法学者達との間の諍いが多くなりました。そしてこの事が主イエスを十字架に追いやる原因の一つであると考えられます。
本日の聖書箇所もこの諍いなのですが、原因となったのはこの少し前12節の主イエスのお証と13節のファリサイ派の人々の反論にあります。もっともその前の3節から11節に書かれている主イエスを陥れるためにファリサイ派、律法学者が姦通の罪を犯した女性を連れてきた話からこの諍いが始まっているということも言えるのですが。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 (12節)
「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」 (13節)
証と聞くと皆さんは何を思われますか?たぶんいかに私達がキリストを受け入れたか、救われたかということです。
ここでは自分自身のことを証したとしても問題はないのです。しかし、この聖書箇所で言われているのは、法的な問題で他人が「この人はこれこれこういう人です。」という証言は信憑性があるのですが、自分自身の事を証言したとしても信憑性がないということです。裁判を思い浮かべてください。被告、被告代理人、原告、原告代理人、裁判官、証人が法廷にいます。この時、最も客観的に信用出来る証言をするのは証人、または証拠です。もっとも実際の裁判では証人の証言の信憑性も問われますし、被告、被告代理人、原告、原告代理人の発言の信憑性も問われるのですが。
さて主イエスは父が証言してくださると答えています。
父とは父なる神の事でありますが、当然これを聞いている人々は理解出来ませんでした。
ですから、「あなたの父はどこにいるのか」と彼らは問います。そして主イエスは「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。」とお答えになられたのです。(19節)
滑稽なほど会話が噛み合っていないのです。
なぜでしょうか?
それは主イエスは目に見えないものをお語りになられているのに、彼らは目に見えるものを語っているからです。
それを受けての本日の聖書箇所です。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」(21節)
ここで主イエスがご自身が去って行かれる場所、天の事をお話になられているわけですが、彼らはそこに来ることが出来ない、なぜなら罪のうちに死ぬからだということです。なぜ彼らは罪のうちに死ぬことになるのかは彼らが御子である主イエス・キリストを受け入れないからです。
彼らは主イエスが自殺でもするから主イエスが行かれる場所に彼らが来ることが出来ないという話をし始めます。
彼らが理解できていない証拠です。
さらに、主イエスは続けます。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」(23節から24節)
下と上という言葉が出てきましたね。これはこの世でいうところ「私はあなたより上だ」とか「あなたは私より下」というような単純なものではなく、天に属しているかこの世に属しているかということなのです。
天に属するとはどういうことでしょう?この世に属するとはどういうことでしょう?天に属するとは主イエス・キリストを受け入れ、聖霊の導きによって信仰に歩むことです。逆に世に属するとは主イエス・キリストを拒絶し、この世の考えによって歩むことです。そしてこの世は悪であるということです。
主イエスは彼らが世に属しているから彼ら自身の罪のうちに死ぬことになるのです。では彼らが、私達が地に属する者から天に属するものに変えられるためにはどうしたらよいのでしょうか?
主イエスは少し独特な表現でこの事を表しています。
「わたしはある」ということを信じる事です。
「わたしはある」とはどういうことでしょう?
わたしはあるとは主がモーセに現れた時のお名前です。ですから主を信じる事です。もしかすると皆さんこのように思われるかもしれません。いや彼らだって主を信じていたでしょうに。確かに何度も何度も彼らは主に逆らってきた。でも、彼らは主に選ばれた民であり、ユダヤ教で彼らなりに主を崇め、律法を守ってきたではないですかと。確かに彼らは彼らなりの方法で主を崇め、律法を守ってきた。ですが、彼らのそれは見せかけの行いでありました。それは主イエス・キリストが何度もご指摘されました。
何よりも大切なことは主イエス・キリストを主として神として受け入れるというのが「わたしはある。」ということを信じることです。それは彼らには到底出来ないことを主イエスはご存知だったのです。
主イエスはその事をご存知だったのですが、話を続けました。それは主イエスが父なる神に対して従順であるからです。26節から29節で主イエスは語っています。
そして多くの人々が主イエスを信じたと30節に書かれています。素晴らしいです。
しかし次から状況が一変します。31節からですが、信じたユダヤ人に主イエスがご自分の言葉にとどまりなさい、つまり御言葉に従いなさいと仰るのです。そして弟子となり、真理を得ることによって自由になりなさいと仰ったのです。ですが、これに主イエスを信じたユダヤ人たちは反発します。33節です。自分たちはあの神に選ばれたアブラハムの子孫で、奴隷になったことなどないと言うのです。
ここに見えるものは彼らのプライドです。私達は神に選ばれた民だ。だから聖なる民で律法を守り、罪などない、あったとしても一時的で祭儀によって清められている。奴隷にだってなってはいないということです。
しかし歴史的にも彼らは士師記に書かれているように何度も何度も異民族に支配されてきました。またバビロン捕囚やアッシリアによるイスラエル王国の壊滅も経験しました。また新約聖書時代はローマ帝国によって支配されていたのです。
しかし主イエスが彼らに仰ったのは政治的な奴隷状態からの解放ではありません。彼らは罪の奴隷となっていてそこからの解放を約束しているのです。私は道であり、真理である。私のもとに来なさい。私を受け入れ、私に学びなさい。そうすることであなた達は罪から解放されるのですと仰っているのですが、彼らはそもそも何で神に選ばれた聖なる民が罪を犯していると言われなきゃいけないんだ。そういう考えだったのでしょう。
この世は悪であると私は申し上げましたが、近頃本当にそう思うことがあります。ウクライナの戦争は終わらず、パレスチナとイスラエルの戦争もまだ終わりがみえません。国会議員の裏金問題もあります。またある漫画家さんがご自身の命を絶たれました。ご自分の漫画がドラマ化されたのですが、脚本家によって改変を何度もされてしまい、クレームを何度も入れたが、あまり効果がなく、いくつかの脚本をご自身で書いたそうです。ですが、脚本家が原作者を攻撃する言葉をSNSで発表したところ、この原作の方が経緯を説明し、最終的に残念な結果になってしまいました。そのドラマを放映したテレビ局は原作者の方には納得していただいたという保身に走るような内容を発表し、脚本家はそのSNSにロックを掛けているといいます。そのような態度のテレビ局や脚本家に対して非難が高まると、誹謗中傷はやめましょうとか犯人探しはよくないとかいうコメントがワイドショーで聞かれるようになりました。確かに誹謗中傷はいけませんが、自分たちに対するまともな批判でも誹謗中傷、犯人探しとレッテルを貼り、言論を封殺し、いかにもこのやり方が正しいとして、沈黙を守り、この場を収めようとする。自分たちは平気で政治家の汚職、裏金の事を散々非難しておきながら、自分たちに非難が向けられると、耳触りの良い理由をつけて、レッテルをはってこれを封殺する。この世がいかに悪であるかを思わせる場面です。
だからこそ主イエスの御教えに焦点をあわせましょう。世に住みつつも、世に属さず、天に属すことを願いましょう。
見えるものではなく、見えないものに目を向けましょう。
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