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「教会の一致と交わり」

2021年9月5日 聖霊降臨節第16主日礼拝

説教題:「教会の一致と交わり」

聖書 : 新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章10-17節(299㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 党派心(とうはしん)、諍い(いさかい)、そして分裂というものは時代や場所を問わず、あらゆる組織で起こりうるものだと思うのです。政治の世界に目を向ければ、与党の総裁選で派閥争いや次の衆議院選挙のための準備は見受けられますが、なかなか私達国民のための政策、特に新型コロナウィルスに対する新しい有効な対策は出されておらず、臨時国会も開かれない状態です。私達にできることと言えば、不要不急の外出を控える、外出時のマスクの着用、ソーシャルディスタンスを取ることなど1年前とほぼ同じことです。1年前と比べて良くなった事と言えば、ワクチンの普及ですが、これも重症化しやすいということで、高齢者の方々から接種を始めたのですが、まだ広く全体に行き渡っていません。そして、悪い事といえば、新型コロナウィルスに感染された方々に対して割り当てる病床数が少なくなってきた事により、より多くの感染された方々が本来入院すべき状態にも関わらず自宅療養を余儀なくされ、そのまま亡くなられる方々もいらっしゃると聞いております。先日には自宅療養をしておられた新型コロナウィルスに感染した妊婦の方が出産間際にどの病院も受け入れず、やむなく自宅出産をしたのですが、死産という悲しい結末をむかえてしまいました。


 今、このような状況の中で、私達の社会では批判、非寛容、そして分裂が起こっているように思います。そして、それは本日の聖書箇所で使徒パウロが批判しているコリントの教会と似ているのではないかと思うのです。本日の聖書箇所Iコリントの信徒への手紙1章10節でパウロは信徒たちに対してこのように勧告しています。「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」


 使徒パウロはクロエという人物の家の者からコリントの信徒たちが「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファ(ペトロ)に」「わたしはキリストに」と言っていると聞いたと次に12節で述べています。では、なぜ使徒パウロはコリントの信徒たちに10節に書かれているような事を勧告したのでしょうか?それは分裂が教会を弱体化させるからです。これは教会だけではありません。あらゆる組織、会社、学校、地方行政、国でもそうです。分裂した組織というものは外の敵に対して弱いものです。例えば、国内で始終内紛が起こっている国は外の敵に対抗しきれません。


 主イエスご自身もファリサイ派の人々に「悪霊の頭ベルゼブルによって悪霊を追い出している」と言われたとき、このように答えました。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。」(マタイによる福音書12章25-26節)主イエスご自身はあらゆる組織が成り立つには一致が必要であるということをよくご存知であったということです。その一致がなければ、その組織は弱いのです。

 

 先程、私は私達の社会の現状が批判、非寛容、そして分裂が起こっていると述べましたが、これも主イエスご自身が指摘している内輪もめに近い状態、また使徒パウロが批判している分裂したコリントの教会の状態だと考えます。この新型コロナウィルスが流行している中で、他県のナンバーに対して嫌がらせをする、そして嫌がらせを避けるために県をまたいだ移動を控える、不織布のマスクをつけるよう指導し、つけていない人々を非難する、医療従事者に対する差別、新型コロナウィルスに感染した芸能人の方が入院したことへの心無い誹謗中傷、なんでもかんでも理由をつけての政府の非難などです。私はワイドショーを見るのですが、専門家でもない方々が様々な批判をしているのですが、あまりにも的はずれなものが多いと考えています。私がこのように申しますと、次のような意見が出てくる事が予想されます。世の中は多様性が必要だし、批判や議論もまた必要だ。むしろ、それがないという事は民主主義の破壊、言論の自由の破壊だ。第2次世界大戦の日本のような社会に戻すつもりかというような考え方です。もちろん、批判や議論をしないというわけではないのです。しかし、私が言いたいのはそういうことではなく、現状は皆が勝手なことを言い、責任も取らず、好き勝手な方向に向い、この社会が混乱状態に陥っているのではないかと言っているのです。それは主イエスが言っているところの内輪もめであり、使徒パウロが批判しているコリントの教会の状態なのではないかと思うのです。 


 使徒パウロはコリントの教会にキリストにあって一つになってほしいと願ってこの手紙を書いたのだと思います。それは彼のこの質問でも明らかです。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」この使徒パウロの「質問」は本当の意味での質問ではありません。つまり「キリストは幾つにも分けられていない。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのではなく、キリストがあなたがたのために十字架につけられた。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのではない。」ということを言うためにあえて使徒パウロはこのように質問したのです。もちろん、彼は後の14節と16節で洗礼の部分の訂正を少ししています。つまり、クリスポとガイオ、そしてステファナの家の人たちに洗礼を授けたと告白しています。そして洗礼を授けるために彼がコリントの地に遣わされたのではなく、キリストの福音を告げ知らせるために遣わされたと使徒パウロは17節で述べています。つまり語弊はあるかもしれませんが、使徒パウロがコリントの地で誰々に洗礼を授けたことが重要ではなく、彼が福音を告げ知らせたことこそが重要であると言っているのです。もし、このまま分裂が続けば、彼の福音宣教は無駄なものになってしまうだろうし、彼の言葉で言えば「キリストの十字架がむなしいものになってしまう」ことになるのです。だからこそ、このような教会を弱体化させるような批判や分裂を使徒パウロはなんとしてでも止めようとしたのだと思います。


 私は議論をするなと言っているのではないのです。批判をするなと言っているのではないのです。私達の教会は今の日本の社会のような、使徒パウロが批判したコリントの教会のような、そして主イエスが批判したような内輪もめのような状態になってはいけないのではないでしょうか。そのためには私達はキリスト・イエスによる一致が必要です。そして今はコロナ禍でできませんが、この状況が落ち着いたら、交わりをしたいと思っております。それこそが神が望まれていることではないでしょうか。

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