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「教会の使信」

2023年6月4日 聖霊降臨節第2主日

説教題:「教会の使信」

聖書 : 旧約聖書 出エジプト記 19章3節-8節(124㌻)

   新約聖書 使徒言行録  2章22節-36節(215㌻)​

説教者:伊豆 聖牧師


 本日の説教題は「教会の使信」です。「牧師先生、教会は分かりますけど、『使信』ってなんでしょうか?ずいぶん、難しい言葉を使うなー」という心の声が今にも聞こえてきそうです。確かにこの言葉は一般的に使われていません。辞書によると、「キリスト教で使徒たちによって伝えられてきた信仰の内容」です。こう聞くと、なんだか難しいと思われるでしょうが、私達が主イエスを受け入れ、教会生活の中で、礼拝の中で学んできた事です。ですが、その学びというものは色々あります。今までに教会学校で、祈祷会で、礼拝説教で、修養会で、教会生活全体の交わりを通して皆さんは学んで来られたと思います。ですから、「もういいよ、学ぶのは」と思われるかもしれません。

 ですが、今一度この「教会の使信」を学ぶ事は必要ではないかと思うのです。なぜなら、私達はこれを学ぶことによって、「私達は何者であるか。」という事を再認識するからです。そして再認識するということはとても大切なことです。私達はキリスト者ではあるのですが、ともすればその事を忘れてしまう事が多いのです。こうして教会の中で礼拝をしている時はキリスト者として自覚はあると思うのですが、一歩教会を出て、日常生活に入っていくと、自分達がキリスト者であることを忘れてしまう。もしくはキリスト者として自覚はあるのですが、周りの人たちに悪い意味で合わせてしまう事がままあるのではないでしょうか?例えばこのように考えてはいないでしょうか?

私達はキリスト・イエスを信じて、義とされたからもう大丈夫だ。地獄へは行かない。だけれども、私達は普通の人と同じだから普通の人のように生活するんだ。その方が気楽でいい。」「救いは得たい、だけれども普通の人のように生活したい。」という事です。つまりはいいとこ取りです。

もしくは「私はキリスト者だけれども、キリスト者ではない友人が多くいます。そのキリスト者でない友人に私がキリスト者であるということを知られるのが恥ずかしい、怖い。だから、自分がキリスト者であることをその友人達には隠しておこう。」という方もおられると思います。

「キリスト者でない友人」を例えば「職場の同僚」と置き換えることも出来ます。

ここで考えなければいけないことは「なぜ、私がキリスト者であることを友人や職場の同僚に知られると恥ずかしいのか、または怖いのか?」ということです。

 一つには「人と違う」ということでしょうか?

日本ではキリスト者の人口が1%と言われています。マイノリティ、少数派なんですね。そして、最近では個性を尊重すべきという考えが広まってきましたが、それでも多数派の人々に合わせるという考え方が日本では主流です。ですから、「キリスト者である。」と宣言することは少数派である、人とは違うということを宣言することであり、職場や友人との間の人間関係である程度、いや相当居心地が悪くなることが予想されます。


 もう一つは「人の目や批判をこれまで以上に気にしなければならない。」ということでしょうか。

自分がキリスト者であると友人や職場で言うことによって、自分がこれまで「普通の人」と同じように振る舞ってきたことが批判されてしまう可能性があります。これまで「普通の人」であれば許されていた行動も「クリスチャンのくせになんでそんな事をするんだ。そんなことを言うんだ。」という批判が向けられてしまいます。そんな批判や非難を受けたくないと思い、出来るだけ自分がキリスト者であるということを友人や職場の同僚に言っていないという人がいます。


 このように、救いは欲しいけれども、普通に人と同じよう生活したいという人、もしくはキリスト者であることを友人や職場の同僚に話すことによって、他の人達と違うとみなされることを恐れるまたは「キリスト者なのにあんなことして。」という批判を恐れる人は多くいらっしゃると思います。

 この事はある程度しょうがないことですし、私にも経験があります。そして皆さんに無理やり、キリスト者であることを告白することを強制することも出来ません。

 ですが、この事を続けるリスクもまた理解していただきたいと考えています。どういうリスクかと言いますと、この様な状況に身を置くことによって、自分が何者であるかということを忘れてしまうということです。

つまり「普通の人」になってしまうわけです。だからこそ、この「教会の使信」というものを学び、私達が何者であるのかということが重要だと考えるのです。

 本日の最初の聖書箇所の出エジプト記です。主なる神がモーセを通してお語りになられました。

「あなたたちは見た わたしがエジプト人にしたこと 

 また、あなたたちを鷲の翼に乗せて わたしのもとに連れて来たことを。」

(出エジプト記19章4節)

ここで主なる神は「奴隷であったイスラエルの民を救ったのはわたしである。」

と宣言されました。

そして「今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば

 あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。

 あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」

(出エジプト記19章5節から6節)

そして、8節で民はこれを受け入れました。

ここで主なる神はイスラエルの民の義務として神の声に聞き従い、神との契約を守ること、そして彼らが守ることによって得られる事、すなわち、イスラエルという国が祭司の王国、民が聖なる国民となるということを宣言されたわけです。

 さて、本日の説教題は「教会の使信」です。そして使信とは「キリスト教で使徒たちによって伝えられてきた信仰の内容」です。ですから、皆さんはなぜ旧約聖書の出エジプトの話を牧師先生はするのだろうかと疑問に思われたかも知れません。ですが、理由があります。

それはこのイスラエルの民の集団が教会の雛形(ひながた)であるからです。

主なる神はイスラエルの民を選び、救い、そして他の人々とは区別しました。そして彼らが主なる神の声に聞き従い、契約を守ることによって恵まれるということです。これはイスラエルの民が主なる神を頭としてこの世と区別される集団であることを意味します。


 さて、本日の第2の聖書箇所です。使徒言行録2章22節からです。これは使徒ペトロの証であり、説教です。つまり使信です。22節でペトロは主イエスが神から遣わされた方であり、この地上で奇跡を行ってきたという事を述べました。23節で人々がこの主イエスを十字架にかけて殺してしまったということを述べました。そして24節、32節では主イエスのご復活の事を語り、33節では聖霊が降ったことを、つまり彼らが目の前で見たことを述べたのです。

 つまり、ここでペトロが民の前で述べたことは主イエスがこの地上で奇跡を行ったこと、十字架に架けられたこと、しかしご復活されたことなのです。それは主なる神がイスラエルの民になさったことをモーセを通してお語りになられたことと同じなのです。


 本日の聖書箇所ではないのですが、37節で民はペトロにどうしたらよいかを聞くのです。それに対して38節でペトロはイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦して頂くようにと答えました。この言葉によって洗礼を受けた人が三千人ほどあったと41節に書かれています。

出エジプトでは主なる神が奴隷状態であったイスラエルの民を救ったということがありました。そして彼らがその事を受け入れ、主なる神との契約を守ることによって他の人々とは違う、神に祝された聖なる国民となるということです。

 使徒言行録では主イエス・キリストが十字架の上での死によって私達の罪を贖い、ご復活されたということを受け入れ、洗礼を受けることによって救われるということです。

そして、両方とも普通の人々とは違うということです。

それはキリスト者でない人々を差別することではありません。私達が普通の人と同じになってしまい、私達が何者であるかを忘れ、救いの確信を失ってしまわないようにするためです。

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