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「新しい人間」

2023年9月10日 聖霊降臨節第16主日

説教題:「新しい人間」

聖書 : 新約聖書 コロサイの信徒への手紙 3章12節-17節(371㌻)​

説教者:伊豆 聖牧師


 最近の世の中の情勢を見てみますと、あまり希望を持てるような事が見当たらないというのが私の感想です。このように申しますと、「牧師先生、朝からあまり憂鬱(ゆううつ)なことを言わないでください。」と言う声が聞こえてきそうです。ですが、事実そうなのだからしょうがないのです。本日も祈りましたが、ウクライナとロシアの戦争は未だ続いています。新型コロナに関しては雰囲気としては収まってきて、多くの人々がマスクを外しているのが見受けられますし、マスコミもあまりこのニュースを報じていませんが、専門家が何とか波がまた来るとか、病院は治療薬をなかなか処方せず、処方するとしても高額だとか、そもそも病院がコロナに感染しているであろう人々を診察するのに様々な壁があるということです。


 さらに、電気、ガス、水道といった公共料金、税金、ガソリンを始め、食品などの物品の値段も高くなってきています。それだけでなく、最近私は二つの事件を注目しています。一つはある大手芸能事務所の元社長、故人ではありますが、未成年を含む所属タレントに対して性的な虐待をしてきたということです。その数は何百人とも言われています。

もう一つは中古自動車販売業の大手が客を騙(だま)してきたということです。

具体的には車を故意に傷つけ、保険会社に水増し請求するということが行われてきたということです。このようなニュースを見てみますと先程申し上げたように陰鬱(いんうつ)とした気持ちになってきます。

 たぶん、皆さんはこう仰るかもしれません。

「私達が住んでいる社会は完全じゃない。様々な犯罪はあるし、

幼児虐待といったものもある。それ以外の社会悪も存在する。

そういった犯罪や社会悪を法律や倫理で正していき、より良い社会にしていくことが大切だ。」

正論です。ですが、表面的でもあります。


 例の芸能事務所の件で言えば、イギリスのBBC放送が番組を組み、被害を受けたとされる人々のインタビューをし、その番組を流しました。そして国連の人権委員会が日本に調査に訪れ、被害者の会が立ち上がり、ようやくその事務所の社長が一方的な会見を行いました。

その時に謝罪をしましたが、この行為を行ったとされる亡くなられた前社長が実際に行ったかどうかについての言明は避けました。さらに、自分はその事を知らなかったということを言われました。そして他のマスメディアもあまりこの事について積極的に報道しませんでした。

そしてようやく最近になってこの社長(辞任し、取締役になるということですが)、新社長(その事務所のタレントでありましたが、引退し、社長業に専念するとのこと)、そしてその事務所のある部署の社長(その事務所のタレント)、そして弁護士で今度はマスメディアの記者たちを入れての会見となりました。


 記者たちからこの前社長が行ってきたことを知っていたかという質問に関して新社長は「告発本とかがあったということを知っている。」部署の社長は「そういう噂があることを知っている。」とのことでした。ここで問題なのは実質的にこの事務所では疑惑はあるが正式にはこのような事はないこととして扱われてきたということです。

さらに言うならば、マスメディアもまたこの事を扱わず、告発本などは事実ではないとして扱ってきたということです。被害を訴える告発ビデオもあったのですが、無視されてきました。週刊誌がこの事務所の前社長の行為を告発しましたが、事務所が提訴し、民事裁判となりましたが、その裁判でこの前社長の行為が認められました。しかし、この時もマスメディアはこの裁判を取り上げませんでした。警察も動きませんでした。

 何十年にも渡ってこの行為が行われてきて、民事裁判では認められたものの、その結果がしっかりと報道されず、事務所、マスメディア、警察といった責任のある大人がなにもせず、ただ見ていただけ。その結果、多くの未成年の子供達が犠牲になりました。そして会見では新社長達はその行為を行った亡くなった前社長を責めましたが、事務所の名前を残すといったことを発表しました。またこの新社長もまたこの会見で記者から「性的な暴行をしたのではないか?」と問われて、「したかもしれないし、してないかもしれない」というあやふやな答えをいたしました。

 結局の所、問題はこのような行為が事務所、マスメディア、司法、行政によって許されてきたということにありますし、いまなお事務所、マスメディアは本当に反省し、新たに生まれ変わろうとしていないということです。例えば、先程も申し上げたように、事務所の反省と対応も十分に反省しているとは言い難いですし、マスメディア自身もいままで告発を無視してきたことに対する十分な反省をしているとは言い難いですし、記者会見では自分達の今までの姿勢を無視して、事務所を責める発言をするのもいかがでしょうか。さらに「タレントに罪はない。」として、いくつかのテレビ局や会社がこのままその事務所のタレントとの繋がりを続けていく、つまり番組やC.Mで使い続けているというのはいかがなものでしょうか。

 事務所、マスメディアは私が先程言った表面上正しいことをお題目にして何一つ反省せず、変わりもせず、そのまま続けていくということです。これは本日の皆さんの週報棚にお配りした役員会の資料に書いたことなのですが、私達の社会は進歩しているのでしょうか?もちろん、科学的には進歩しているでしょう。自動車が走り、飛行機が飛び、電気、ガス、水道があります。また医療が発達し、いままで治せなかった病気が治るようになりました。人権、法律、倫理観といったものはどうでしょう?確かに一昔前は奴隷制度、人種差別、といったものが行われてきました。(いまでも人種差別はところどころありますが。)

ですが、人権、法律、倫理観といったものは一昔前とくらべると向上してきたように思えます。

しかし、この様な行為を事務所、マスメディアが知りつつ無視してきたこと、そしてようやく認めて、表面的に謝罪を口にしているが、本当に反省がないことを考えるとまだまだ私達の社会というのは正しい社会ではないということです。というよりも私達の考える人権、法律、倫理観では本当の正しさに到達することは出来ないのではないかというふうに考えを変えなければならないと思うのです。

 不正を犯した中古車販売会社の社長も記者会見で辞任を発表しましたが、本人は知らなかったと言っています。またこれらの不正が発表されてから様々な不正が明るみに出てきました。そしてある損害保険会社の社長はこういう行為を分かっていながら取引を続けてきたということです。新たにこの中古車販売業者の社長になられた方は反省を口にしつつも、もしある社員が外部に会社の秘密を漏らし、損害が出た場合、その社員に損害賠償を請求するという事実上の口止めを要求したと聞きます。また、この中古車販売業者だけでなく、他の大手中古車販売業者も同様な行為をおこなってきたということです。やはり、これも会社ぐるみ、業界ぐるみでこのような不正行為を長年行ってきて、だれも、行政も含めてですが、指摘しなかったということです。そして、その事が明らかになった後も反省せず、隠す、もしくは隠れて同じことを続けようとするということです。

 やはり人間の社会での正義は限界があるということです。というよりも、主イエスご自身がこの世は悪であると仰いました。では私達はどうすれば良いのでしょう。私達はこの世に倣うのではなく、神に倣う、主イエスに倣う必要があるのです。どうすればそれが出来るのでしょうか?御言葉に聞き、祈り、聖霊に導かれて行動するのです。


 本日の聖書箇所です。12節の前半では「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」とあります。一言で言えば「クリスチャンである」ということです。私達が何者であるかということをこの著者は言っているのです。これはとても重要です。私達は何者であるのかということからすべての行動が始まるのです。その行動とは何か。「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」と言っています。

これらは美徳と呼ばれるものです。この美徳を身につけるという行動をしなさいということです、そのためにはキリストに近づくことが必要です。そうすることで、これらの美徳が身についていきます。そしてこれらの美徳が行動として現れてくるのです。想像してみてください。

この事務所のマスメディアに圧力をかけ、実際に事を行ってきた前社長、事務所のスタッフ、それに応じていたマスメディア、今は表面上謝罪を口にするが本当は反省していない事務所の経営陣、自分たちが無視してきた事を棚に上げ、事務所の経営陣を批判するマスメディア、これらの人々にこれらの美徳が身についているとは到底思えません。

また、自分は知らないと言い、辞任するような中古車販売会社の元社長、反省を口にしつつも、社員に口封じをするような現社長にこのような美徳が身についているとも思えません。

 さらに本日の聖書箇所を読んでいきます。13節では「赦し合う事」を言っています。14節では「愛」を言っています。これらは私達にとってとても大切です。主イエスもパウロも度々「赦すこと」を述べています。多分皆さんは私の芸能事務所や中古車販売会社に対する姿勢が赦すこととは違うのではないかと仰るかもしれません。

ですが、私は罪を赦すことと悪を許すこととは違うと考えています。例の芸能事務所にしても、マスメディアにしても、中古車販売業者にしても彼らは口先で反省を口にしつつも、全く反省せず、このままの状態を続けていこうということです。これは悪であり、これに対して批判しないのは聖書で言うところ罪の赦しではないと考えています。

主イエスが口先だけで神に従っていると言いながら、その実、していないファリサイ派の人々に対して激しい言葉で非難したことは皆さんもご存知だと思います。一度などは神殿から商人をムチで追い出したことすらありましたね。私達キリスト者は神の罪の赦しと悪をするのを許可するという許しをごっちゃにしてしまうのです。これは注意しなければいけないと私は思います。


 愛は私達クリスチャンには当然必要であり、中心でなければなりません。パウロが愛についてIコリントの信徒への手紙13章で語っています。読んでおくとよいでしょう。そして15節で平和があります。やすらぎ、平和です。もし私達の心が平和でなく、戦争状態で乱れていたらどうでしょう。人に対して攻撃的になり、主イエスを外に示すクリスチャンになり得ません。16節ではキリストの言葉が私達の内に宿るようにということです。つまり、御言葉が私達の心の中で生きていなければなりません。覚えているとか、表面上の意味を知っているということではなく、私達の行動を支配していただくのです。そして本日の最後の17節で「主イエスの名によって行いなさい。」とあります。

つまり、私達に求められているのは、主イエスの事を常に考えて行動するようにということです。難しいことは分かっています。

ですが、それを主イエスは私達に求められているのです。


 私達は新しい人間にならなければならないのです。それは主イエスのようになることです。主イエスを求め、主イエスに倣うことです。本日の聖書箇所はそういうことなのです。某芸能事務所、中古車販売業者もまた口先ではいままでの事を反省し、新しく生まれ変わると言っています。ですが、それらはまさに口先だけです。そして、私達が尊重している、人権、倫理、法律というものも極めて不完全なものであり、この世そのものも悪なのです。だからこそ、聖書で語られる神の正義が必要なのです。世の光、地の塩として聖書に学び、キリストに従いましょう。

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