「新しい神殿」
2023年1月29日 降誕節第6主日
説教題:「新しい神殿」
聖書 : 旧約聖書 ハガイ書 2章1節-9節(1477㌻)
新約聖書 ルカによる福音書 21章5節-9節(151㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
旧約聖書で預言書と呼ばれるものは大預言書と小預言書に分けられます。大預言書と呼ばれるものはイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書等で分量が多いものです。一方、小預言書と呼ばれるものは本日の聖書個所のハガイ書、オバデヤ書、アモス書等で分量が少ないものです。分量が少ないからといってその書が聖書において重要ではないということではありません。このハガイ書もまた聖書において重要な書であります。
ハガイ書とは預言者ハガイの預言を記している書です。さて預言者ハガイとはどういう人物かというとバビロン捕囚帰還後の預言者ということです。もう何度か説教でお話してきているのですが、ダビデ王とソロモン王によってユダヤ人の国は統一されました。しかし、その後イスラエル王国(北王国)とユダ王国(南王国)に分裂します。そして両王国の人々は主なる神を捨て、偶像礼拝に走り、国内には不正が満ち溢れました。
そしてイスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされ、ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされました。ユダ王国の住民の多くは捕囚としてバビロニアに連れて行かれました。バビロン捕囚です。
その後、バビロニアはペルシャによって滅ぼされました。ペルシャのキュロス王によってユダヤ人も含めて征服され連れてこられた人々は故郷に帰ることを許されました。ユダヤ人たちが故郷の地に帰還してから活躍した預言者がこのハガイということになります。
では主はこの預言者ハガイを通じてこの帰還した民に何を呼びかけたかというと神殿の再建です。神殿はバビロンによって征服された時に徹底的に破壊され、見るも無残な状態になったのです。捕囚から帰還した民達は自分たちの家を立て直すと同時に神殿の再建に着手したのですが、サマリヤ人や異邦人の妨害で神殿の基礎の部分だけ建てて、その後の工事をしなかったということでした。このような状態を神は怒り、神殿を再建するよう預言者ハガイを通じて民に語りかけられたということです。
本日の聖書個所の前ですね。ハガイ書1章2節にはこう書かれています。
「万軍の主はこう言われる。この民は、『まだ、主の神殿を再建する時は来ていない』と言っている。」
さらに4節「今、お前たちは、この神殿を廃墟のままにしておきながら自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。」
と書かれています。
2節で神がご指摘になられているもしくは非難されている民達の声「まだ、主の神殿を再建する時は来ていない」というのも一応理由はあります。先程言ったようにサマリヤ人や異邦人の妨害があったからということですね。ですが、困難があるからといって神の神殿を放っておいてよいということにはならないのではないでしょうか?3節で神がご指摘になられているのは自分たちの住む家を作っておきながら、主の神殿は放っておいていいのですか?ということです。確かに私達は住む家は必要ですね。よく言われるように衣食住というのは人間生活をする上で欠くことが出来ないものです。ですが、それは主の神殿をなおざりにする理由ではないのです。
4節の「板ではった家」というのはなにかみすぼらしい家ではなく豪邸です。そしてその建築資材は本来神殿の建築用のものだったということです。さらに言うならば、サマリヤ人や異邦人の妨害があるからと言って神の家である神殿をなおざりにしておきながら、自分たちの豪邸を建てる労力と時間はあるのだなと神はご指摘されているのです。
そして5節から11節まで神は民の利己主義を非難されています。
その非難を受けシャルティエルの子ゼルバベル(政治的リーダー)、大祭司ヨツァダクの子ヨシュア(宗教的リーダー)に率いられた民たちが神殿の再建に取り掛かったというのが本日の聖書個所です。
預言者ハガイを通して主の言葉が下ったのです。「お前たち、残った者のうち誰が、昔の栄光のときのこの神殿を見たか。今、お前たちが見ている様は何か。目に映るのは無に等しいものではないか。」(ハガイ書2章3節)
作り始めたのはいいけれども昔の神殿と比べると見劣りするという主のご指摘ですね。さらに言うならば、昔のソロモン王が建てられた神殿を見た人々にも呼びかけていますね。彼らはかなり高齢だったと思いますが、彼らにしてもみすぼらしいであろうと主はご指摘しているのです。まだ全部出来上がっていないのにそのご指摘はどうかと思いますが、主のご指摘そしてソロモンの神殿を知っている長老たちにとってはみすぼらしかったのだろうと思います。この事を表しているものが別の聖書個所にあります。エズラ記3章12節から13節です。このエズラ記という書物もバビロン捕囚帰還後のユダヤ人達の事が書かれていますので読んでおいたほうが良いでしょう。
「昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの叫び声をあげた。人々は喜びの叫び声と民の泣く声を識別することができなかった。民の叫び声は非常に大きく、遠くまで響いたからである。」
つまり、昔の神殿を見たことのある人々はこの基礎が据えられた神殿を見てなんとみすぼらしいと嘆いたけれども昔の神殿を見たことがない人々は神殿の基礎が据えられたということそのものに喜んだということですね。ここに世代間のギャップというものがあります。この世代間のギャップを抱えたまま神殿建築の再開が始まったということです。
元の聖書個所ハガイ書2章3節に戻ります。先程私は主がここでこの神殿のみすぼらしさをご指摘されている。そして昔のソロモンの神殿を知っている人々も同様に感じているということをご指摘なさっていると言いました。しかし、主は彼らの神殿建築の努力を非難しているのでしょうか?もしくは馬鹿にしているのでしょうか?「今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。…と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると万軍の主は言われる。」(ハガイ書2章4節)
主は民の政治的指導者であるゼルバベルと宗教的指導者であるヨシュアを力づけ、この神殿建築を続けよと仰いました。
5節から8節にかけても主はご自身の偉大さを語り、9節で主はこう仰いました。「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与える」
民が据えた神殿の土台、そしてその上に建て始めた神殿は確かに昔の神殿に比べたらみすぼらしいものであったでしょう。昔の神殿を知っている人々にとっては嘆き悲しむべきものだったでしょう。しかし、重要なことは民たちが主の言葉に奮い立ち神殿建築を再開し始めたということです。神殿建築を再開する前はどうだったでしょうか。土台だけ建てられたみすぼらしいものでした。今の状態もほぼ同じようなみすぼらしいものでしょう。しかし、民の心が主の方を向き、行動を始めたのです。信仰とそれに伴う行動が見られたのです。これこそが主が私達に求められていることです。これこそが新しい神殿であり、主の真の神殿です。そして栄光で神殿を満たすのは主であるということ、私達ではないということを忘れてはいけません。7節に「…この神殿を栄光で満たす、と万軍の主は言われる。」と書かれています。
本日の第2の聖書個所です。ルカによる福音書21章5節からですね。ここでは外見上素晴らしい神殿が出てきます。おそらくソロモンの神殿のように立派なものだったのでしょう。そして人々はその立派さを褒めそやします。しかし6節で主イエスはこの立派な神殿の崩壊を預言なされます。それだけでなく8節、9節で終末の予兆を預言なされます。ここで重要なことは何でしょうか?信仰です。人々は神殿の素晴らしさという見た目に心奪われ、色々と褒めていました。しかしそんな物は一瞬で崩れ去るよと主イエスは仰いました。見た目ではないのです。実際ソロモンの神殿もバビロニア帝国によって滅ぼされました。
さらに、主イエスは8節、9節で主イエスの再臨、戦争、そして暴動といった噂に惑わされないよう気をつけなさいと仰いました。神殿の素晴らしさという外見や噂などの外聞に惑わされないようにしなさいということですね。だからこそ信仰と信仰に基づいた行動が大切なのです。それが新しい神殿であり、主の真実の神殿なのです。そのような神殿を私達の心に持てるように主に祈ろうではありませんか。
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