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「旧約における神の言(ことば)」

2022年12月4日 アドベント第2主日礼拝

説教題:「旧約における神の言(ことば)」

聖書 : 旧約聖書 イザヤ書 55章1節-11節(1152㌻) 

説教者:伊豆 聖牧師


 アドベントという期間は主イエス・キリストの到来を待ち望む期間であるということは先週お話いたしました。ですが、本日の聖書箇所は「待ち望む」というのとは少し違っています。待ち望むというのはどちらかというと静的な行動だからです。つまり到来するのは主イエス・キリストであるわけです。私たちはそれを静まって「待ち望む」わけだからです。静まって、確信を持って父なる神が御子である主イエス・キリストを私たちの救いのために送って下さることを待ち望む事です。確かにこの事は必要な事です。ですが、私たちの方も主イエスの方に近づく行動をしなければいけません。    「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め 価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」と1節に書かれています。このイザヤ書が書かれた時期というのはユダ王国がバビロニア帝国に滅ぼされ住民がバビロンに捕囚された時期だと言われています。 当然の事ながら捕囚された住民の生活は良いものではなかったでしょう。元々この地域つまり、メソポタミア地方では水、穀物、ぶどう酒、乳というものは貴重なものでありました。ですから、ただでこれらの貴重品を得ることができるなんて、捕囚という身分のユダヤ人からすればとんでもない事だったに違いありません。私たち日本人は水と安全はただという比較的恵まれた国に住んでいます。そのような私達であってもただで穀物等を得ることが出来るとは思ってはいません。  しかし、主はこれらの物をただで与えると仰っているのです。もちろん主が言っているこれらの物、水、穀物、ぶどう酒、乳といったものはずばりその物だったことでしょう。しかし、それだけの意味ではないともいえるのではないでしょうか? つまり、主の御言葉です。主の元に来ることによって、立ち返ることによってそうした貴重な物、生活必需品を手に入れることが出来ると主は仰られているのですが、それだけではなく、それよりも御言葉もまた貴重な物、生活必需品であり、それらを求めよと主は預言者イザヤの口を通して仰っているのです。もっと言うならば、「求める」だけでなく「来い」と仰っているのです。  ここに先程言ったアドベントの「待ち望む」との違いがあるのです。「主を求め、主の元に行く。」というのは私たちの方からの積極的な行動、アクションです。これはアドベントの「待ち望む」という静的な行動、アクションとは違います。私たちは静まって主イエス・キリストを待ち望む事が必要です。しかし、いざ主イエス・キリストが来られたなら、主の元に行く事が必要です。  本日の聖書箇所の2節にはこの様に書かれています。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。」イザヤの口を通したこの主の預言はユダヤ人達がバビロン捕囚の憂き目に遭っていた時期になされたものであると言いました。彼らは主以外の偶像の神や自分自身の富、権力などにより頼み生活していたせいで、滅ぼされたのです。ユダ王国の滅亡、バビロン捕囚は実際にはバビロニア王国によってされたことですが、それは主から出たことであり、その原因はユダヤ人達が主以外の物を求めていったせいです。私はアドベントが主イエスを待ち望む時期であると言いました。さらに一歩進めて、主が来られたのなら、主を求め、主の元に行く事が必要であるとも言いました。間違ってはいけないのは主ではなく何か別のものを求め、それに向かって行ってはいけないということです。何か別の物を待ち望み、そこに行ってはいけないということです。主を何か別の物と取り替えてはいけないということです。2節で主はその別の物を「糧にならぬもの、飢えをみたさぬものの」と仰られています。 主はなぜこのような警告をされたのでしょうか?ユダヤ人達はこのような糧にならぬもの、飢えをみたさぬもののために銀を払い、労苦したのです。偶像です。ユダヤ人達はその他の偶像の神、富、地位、名誉といった物を慕い、銀を払い、労苦し、挙げ句に破綻しました。バビロン捕囚です。しかし、憐れみ深い主は人々に立ち返るよう求められたのです。3節です。「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。」とあります。 6節にはこの様に書かれています。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」 これはバビロンに捕囚されたユダヤ人に対して預言者イザヤの口を通じてお語りになられた御言葉です。いわば旧約における神の言です。

しかし、この御言葉は新約聖書においても語られています。 主イエスはこう仰られました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイによる福音書11章28節から29節) また主イエスとサマリアの女性との問答を覚えていらっしゃるでしょうか?主イエスはこのように仰られました。「…この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書4章13節から14節) さらに、主イエスは御自分を迫害していたユダヤ人達に対して批判してこの様に仰られました。 「…あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(ヨハネによる福音書5章40節)これは彼らの心が偶像に支配されていたからではないでしょうか?自尊心というプライドです。「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」と主イエスは彼らを批判しています。 (ヨハネによる福音書5章44節)

 旧約における神の言は新約の神の言へと繋がっている、続いているということです。バビロン捕囚の時のユダヤ人達も主イエスがこの地上で伝道をされていた時のユダヤ人達も主に逆らい、偶像を持っていたということになります。そして、旧約における神の言は現代を生きる私たちへと繋がっている、続いているのです。 私たちの周りにも様々な偶像があります。他の宗教の神々、マスコミにもてはやされている著名人、最近ではユーチューバーなんて方々も多くいらっしゃるようですね。それからもっともらしい論理や考え方、地位、金銭、プライドなどなど挙げればきりがありません。こういう事を挙げていくと、人間というのは昔も今も変わらないのだなと考えてしまいます。これは自分も含めてですけれども。だからこそ、主の御言葉が私達にとって必要なのです。主の御言葉と主イエス・キリストこそが私達に力を与えるのです。偶像を捨て主イエスを心静かに待ち望み、大胆に主イエスの元に近づこうではありませんか。

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