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「旧約における神の言」

2023年12月10日 アドベント第2主日 

説教題:「旧約における神の言」

聖書 : 列王記上 22章1節-17節(572㌻)​​

説教者:伊豆 聖牧師


 旧約聖書を難しくしている原因の一つは歴史的な事だと私は思うのです。だれがだれの息子だったりという系図だったり、どの国とどの国が戦ったという戦争だったりそういったことですね。もちろん、それ以外にも難しくしているのはあります。例えば律法の規定なんかも詳細でとっつきにくいのでそれらをついつい飛ばしてしまいがちです。本日の聖書箇所は列王記です。これはイスラエルの王ダビデ王の最後からその子ソロモン王の治世と彼の主に対する反逆、そのことによる彼の息子の代にあって王国の分裂(ユダ王国とイスラエル王国)、それぞれの国の主に対する反抗、そしてバビロンによるユダ王国の滅亡で終わります。これだけ聞いてみますと、あまりに難しそうなので読む気がなくなってしまいそうですが、イスラエルの歴史を知る上で興味深い書物であることも事実です。


 さて、本日の聖書箇所です。1節から3節までで分かることはアラムとイスラエルの間で3年間戦争がなかったということ、3年目になってユダ王国ヨシャファトがイスラエルの王のところにやってきたということ、イスラエルの王がアラ厶と戦争をしたがっていることとその原因がラモト・ギレアドという土地をアラ厶から取り戻せないでいることです。

 これだけでは何が何やらさっぱりわからないということです。

実は以前、アラ厶という国がイスラエル王国に対して戦いを挑んだことがあるのです。その時随分、居丈高な態度をイスラエル王国に対して取り、王国に対して戦争を挑みましたが、結局主の力で彼らは退けられました。その時アラ厶の王ベン・ハダドは彼の父がイスラエル王国の王アハブの父から奪った土地を返すという協約をイスラエル王国と結びました。どうもその返すといった土地の中にこのラモト・ギレアドという土地があり、それがまだ返してもらっていないので、イスラエル王国の王であるアハブはアラ厶に戦争を仕掛けるということです。そしてユダ王国は分裂したイスラエル王国の兄弟国ですが、その王ヨシャファトはアハブ王と仲が良かったのです。

ですから4節のアハブ王のヨシャファト王に対する誘い文句とその応答になるわけです。

「わたしと共に行って、ラモト・ギレアドと戦っていただけませんか」というアハブ王に対して「わたしはあなたと一体、わたしの民はあなたの民と一体、わたしの馬はあなたの馬と一体です。」

というヨシャファト王の応答です。

ですからこれはもうユダ王国・イスラエル王国が一緒になって戦うのは当然だということですね。

 しかし、そうは言いながらヨシャファト王はここで水をさす言葉を口にします。「主の言葉を求めて下さい。」イスラエルの王アハブは約四百人の主の預言者を招集し、ラモト・ギレアドと戦うべきか尋ねたところ、彼らは戦うべきと答えました。約四百人の預言者が一斉に「戦うべき」と答えるのは異常だと思えますね。たぶんそのように考えてユダの王ヨシャファトはさらに主の預言者はいないのですかとイスラエルの王に尋ね、彼はしぶしぶ一人の預言者の名前を挙げます。イムラの子ミカヤです。ですが、なぜイスラエルの王がいやいや名前を挙げたかというと、この預言者ミカヤが災いばかり預言するからです。

 ですが、逆にこの約四百人の預言者は幸運ばかり預言していたということです。人間というのは聞きたい事だけ聞くという性質を持っています。特に権力を持っている人はその傾向にあります。

つまり、この約四百人の預言者は偽預言者だったということです。

彼らには主の言葉は聞こえず、王の聞きたいことを答えていただけです。そしてこの預言者ミカヤが災いを預言した理由はアハブ王が主の御心に反することを多く行ってきたからです。

 列王記上16章29節にアハブ王は登場します。彼は悪い王として登場します。「オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った。」と30節にあります。彼の罪は偶像崇拝の罪でしたが、その原因となったのはシドン人の王エトバアルの娘イザベルを妻に迎えたことにあるようです。彼女の影響で異教の神々を信仰することがイスラエルに普及しました。ちなみに彼女の父は王であると共にバアル信仰の祭祀でもありました。エトバアルとはバアルとともにという意味です。そして彼女は多くの主の預言者を殺し、預言者エリヤが彼女の手から逃れましたが、エリヤはバアルの預言者と対決し、彼らに打ち勝ち、彼らを殺した話は有名です。

 またアハブ王がナボトのぶどう畑を代金や代替え地で手に入れようとしたことがありました。ですが、ナボトはその提案を拒否し、アハブ王が塞ぎ込んでいると、イザベルがナボトを嘘の証人で訴えさせ、彼を殺させ、そのぶどう畑を夫アハブ王のために手に入れました。これは主の御心に著しく反することでした。そして主はその事で預言者エリヤを通じてアハブ王を責めました。しかし、驚いたことに彼は悔い改めたので、下すと宣言された災いはアハブ王が存命の時は下さない事を宣言されました。

アハブ王は基本的には主の御心に反したことを多く行い、主の預言者たちを迫害し、悪王であったのだが、主はアラ厶との戦争でアハブを助け、アラムを打ち負かし、悔い改めたアハブ王に対して哀れみをかけるという驚くべきことをなさいました。主の慈しみと哀れみは素晴らしいものです。

 随分と脱線してしまいましたが、元に戻りますと、やはりこのアハブ王の性質というものは主に敵対しているということに変わりはないようです。一時的な悔い改めはあるにしろ。8節の彼の言葉に現れています。ですが、ユダの王のアドバイスに従って預言者ミカヤを呼びに行かせます。

 その間に他の主の預言者達、偽預言者たちなのですが、彼らは口々にイスラエルの勝利を口にしていました。さらに言うならば預言者ミカヤを呼びに行った者もミカヤに対して同じ様に幸運を口にするよう促しましたが、ミカヤは主が告げられるように告げると頑として譲りません。これは旧約聖書時代の主の本当の預言者達の特徴ですね。この主に対する忠誠、信仰は新約時代の使徒たち、キリスト者達に引き継がれました。彼らは艱難にあっても主の真実に誠実でした。

 さてイスラエルの王とユダの王が来られ、ラモト・ギレアドに攻め上るべきかどうかをミカヤに尋ねましたが、意外にも彼は「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります。」と答えました。(15節)

つまり王が満足する答えですね。

しかし、イスラエルの王は本来喜ぶべきところなのですが、逆に怒ります。「何度誓わせたら、お前は主の名によって真実だけをわたしに告げるようになるのか」と次の16節で言うんですね。

つまり、この預言者は本心を告げていないということが分かっているんです。預言者ミカヤの言葉は偽りだということです。本当は攻め上ってはいけないということです。

しかし、さらに言うならばイスラエルの王の発言も偽りなのです。

「主の名によって真実だけを告げろ」と王は言うのです。確かにこの時点ではミカヤは嘘を言っています。しかし、普段言っていることは、王にとっては災いなことなのですが、それこそが主の名によって真実なことなのです。むしろ王が望んでいること、主の名によって真実なことと主張していることが偽りなのです。

最後の17節で預言者ミカヤはイスラエルの敗北をこのような言葉で宣言します。

「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主は、『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました。」

もちろん、イスラエルの王は預言者ミカヤの言葉を聞かず、彼を牢獄にいれて、戦に出ますが、戦死します。

 旧約聖書における神の言は預言者の口を通して王や民に告げられました。しかし、この言は届きませんでした。偶像礼拝、権力者への追従や権力者の自分の聞きたいことだけを聞くというプライド、偽預言者達の言葉などです。そして真実を話す主の預言者たちの多くは迫害され、淘汰されていきました。今の時代も似たようなものではないでしょうか?いやいや牧師先生、そんな昔の時代と違って、科学も進み、人権の意識も進んだ今の世の中でそんな非科学的なことが起こり得るはずがないでしょうと言われるかも知れません。ですが、周りを見渡したことがあるでしょうか?

世の中には多くのにわか論客やインフルエンサーが溢れかえっていることに。インフルエンサーとは世間に影響を与えるビジネスをおこなっている人物です。ちなみにインフルエンスという言葉から来ています。インフルエンスは人に影響を与えるという意味です。

こういう人達に世間は、若者たちは影響されていくのです。

まさに私達は羊飼いのいない羊のように山々に散っている状態であり、様々なインフルエンサーの言うこと、TVコメンテーターの言う事に翻弄される揺れ動く葦のようであります。またはこのイスラエルの王の様に自分を頼りにするようであります。

 だからこそ私達には主イエス・キリストが必要なのです。

「わたしは道であり、真理であり、命である。」と仰った主イエスが必要なのです。

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