「最初の弟子たち」
2023年1月15日 降誕節第4主日
説教題:「最初の弟子たち」
聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 5章1節-11節(109㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、聖霊が主イエスの元に降り、天からの声が聞こえたという話をいたしました。その後、主イエスは神の霊に導かれて、荒野で40日間悪魔に試みられ、その試みに打ち勝ち、地上での伝道を開始されました。
何事にも準備というものは大切です。そして主イエスのこの地上での伝道の準備とは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられる事と悪魔からの試みに打ち勝つ事であることは間違いありません。
さて、本日の聖書個所です。「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」とルカによる福音書5章1節に書かれています。ゲネサレト湖という名前は皆さんに馴染みがないかもしれませんが、ガリラヤ湖の別名です。ガリラヤ地方は主イエスが伝道を始められた場所であり、馴染みの地名なのでおわかりかと思います。
そして「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」と書かれているので、もう既に主イエスは伝道を始められていて、多くの人々に欲されていたという事がわかります。
これだけを見ると主イエスの伝道は成功していたという事がわかります。
そして、群衆の求めに応じて主イエスは説教をされたのですが、場所が湖の上の船からだったのです。船に座られて説教をされたということですが、かなり安定さが欠けていて、説教するのは難しかったであろうと思います。群衆があまりにも多く、場所がなかったせいであろうと思います。主イエスは湖の岸にある2そうの船と漁を終えて網を洗っている漁師たちをご覧になられました。そして主イエスは船に乗り込まれ、シモン、皆さんにとってはペトロという名前の方が馴染みがあると思いますが、彼に岸から少し漕ぎ出すよう頼まれ、その船の上から説教をされたのです。主イエスはシモンに頼み事をなされ、シモンは素直にそれに応じています。ですので、主イエスとシモンは何らかの繋がりがあったのかもしれません。もしくはシモンが主イエスを尊敬していたということが伺(うかが)えます。5節でシモンが主イエスの事を「先生」と呼んでいるのもシモンが主イエスを尊敬している表れだと考えます。
主イエスがシモンに船を岸から漕ぎ出すことを頼まれ、シモンが応じ、主イエスが説教をなされたのであればここで話は終わります。もちろん主イエスは素晴らしい説教をされたのでしょうけれどそれだけなのですね。主イエスはペトロに仰せられたのです。
「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」
(ルカによる福音書5章4節)
ここで重要なことは主イエスが説教をなさるために船を漕ぎ出した位置よりもさらにもっと先の位置まで漕ぎ出すようシモンに求められたのであろうと思うのです。3節に主イエスが説教をなさるためにシモンに頼まれる様子が書かれているのですが、「岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。」と書かれています。そして主イエスは当然漁をすることをシモンに求めているのですが、少し漕ぎ出してたどり着けるような位置で漁をしたとしても多くの数の魚をとることなどは出来ないのではないでしょうか。
主イエスは彼に説教をされた場所よりもさらに先まで行きなさいと仰いました。これは重要な事だと考えます。この後シモンは主イエスの弟子となるのですが、これは主イエスがシモンをさらに沖まで、お連れするという事、つまり、説教をされた群衆と違って弟子にするという事を示しているのかもしれません。
主イエスの「さらに沖に出て漁をしなさい」というご命令に対してシモンは一晩中漁をしたが魚一匹とることは出来なかったという事を言いつつも、主イエスのご命令に従い、網を降ろしました。
シモンは魚をとるプロの漁師であり、その彼が一晩中漁をしても魚をとることが出来なかったのです。ですから、彼が沖に出て網を降ろさないという選択肢を取ることも出来たのです。いやむしろ一般的にいえばその方があたりまえだったに違いないのです。
このシモンのような選択を迫られる場面を私達は人生で経験してきたと思います。私達は目の前の現実に対処しなければなりません。たとえ神様を信じていると口では言っても現実的に無理ではないかという場面に日々遭遇します。経済的な問題、学業の問題、仕事上の問題、健康の問題、家庭内、学校内、職場での人間関係の問題など、私達が人生を生きていく上でこれらの問題は避けて通れません。そして私達はこれらの問題に遭遇した時は現実的な対処をします。すなわち、自分自身で解決する。親、親類、知人に相談して解決する。金銭などを払って専門家に相談して解決する。
ですがこれらは結局この世の力に頼ることになるのです。
もちろん、私は現実的な対処をするなと言っているのではありません。私達はこの世で生きているわけですし、自分自身でまたは親知人、専門家に頼って物事を解決するのは当然です。しかし、それだけが世界であるというように考えてしまうのです。目に見えるものだけが全てであると考えてしまう。それで神の事を忘れる。自分自身、親、知人、専門家、金銭、名誉、人間関係(コネ)等そういったものを拝み、神としてしまう。これが偶像なのです。わたしはよく旧約聖書でイスラエルの民が主なる神から離れて様々な神々に仕えたという事を皆さんに話してきました。
そしてこれらの神々が偶像であるということを話してきましたが、偶像とはこれらの神々ばかりでなく、私が今さっき話した、自分自身、親、知人、専門家、金銭、名誉、人間関係(コネ)なども偶像になりえるのです。果たして、今私達の状態はどうでしょうか?私達の心の中にこれらの偶像はありますか?
シモンの場合であれば彼の漁師としての経験でしょうか?つまり魚をとるプロである彼と彼の仲間たちが一晩かけてとれなかったんだからとれないだろうということですね。少し言いすぎかもしれませんが、これこそが偶像なのです。ですが、彼は主イエスに従ったのです。これが信仰なのです。もちろん、シモンは完全に納得して従ったわけではありません。疑いつつも従ったわけです。そういう意味では弱い信仰であったのです。ですが、従ったのです。結果としてシモンとその仲間たちは大量の魚をとります。驚いたというよりも恐れを抱いたシモンは主イエスに離れて下さいと言うが、主イエスは恐れることはない、今からあなたは人間をとる漁師になると仰いまして、シモンと彼の仲間たちは全てを捨てて主イエスに従ったということです。
私達の信仰はこのシモンの様に弱いのです。ですが、その様な信仰の弱い私達であっても主イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と仰っているのです。
「人間をとる漁師になるだろう。」でもなく「人間をとる漁師になるはずだ。」でもなく、「人間をとる漁師になる。」と主イエスは断言なされたのです。
まず、主イエスはシモンとその仲間たちを弟子にすることでご自身が「人間をとる漁師になる」ことをお示しになられました。
そしてシモンとその仲間たちも主イエスと同様に「人間をとる漁師になる」と断言されました。つまり主イエスは今弟子となる彼にこう言われたのです。あなたは私の弟子を作る。更なる私の弟子があなたによって作られる。そして実際そうなのです。私達がその証なのです。
主イエスは説教をした時の場所よりさらに沖に出なさいとペトロに仰いました。ペトロに仰った事は私達にも仰っていることなのです。本日歌う新聖歌にはないのですが、新聖歌345番のタイトルは「沖へ出でよ」です。2番の歌詞にはこうあります。
「世の人は岸に立ちて 沖をば見るのみ
主の恵み深さなど あえて知らんとせず
沖へ出でよ 岸を離れ 主の恵みのただ中へ いざ漕ぎ出でよ」
この世の人は主イエスの説教を岸で聞いていた人たちです。ペトロの信仰は不完全ながらも彼は沖に出たのです。私達は岸に立っていたいですか?それとも沖に出たいですか?
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