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「最初の弟子達」

2024年1月28日 公現後第4主日 

説教題:「最初の弟子達」

聖書 : ヨハネによる福音書 1章35節-51節(164㌻)​​

説教者:伊豆 聖牧師


 何事にも準備が大切だということを以前私は申し上げました。スポーツ選手であれば練習が必要です。もう終わってしまいましたが、箱根駅伝では参加した各大学の選手たちは練習をされてきたはずです。また受験をされる生徒さんたちは当然受験勉強をしてきたはずです。

来月2月5日の月曜日に神学生が卒業論文を発表されます。その発表をし、各先生方から質問されるのです。私も経験があるのですが、そのプレッシャーたるは大変なものなのです。できれば避けたいのですが、そうはいかない。受けて立つ以外ないのです。そしてこの卒業論文の発表にもテーマを決め、資料を集め、整理し、論文を理路整然と書き、想定される質問に対しての答えを考えるという準備が求められているのです。

 さて本日の聖書箇所ですが、主イエスが伝道をする前に最初の弟子達を集めるもしくは彼らが主イエスの元に集まる場面です。主イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受け、40日間悪魔からの試みに遭われてからということです。35節から40節を読んでみますと最初に主イエスに従った弟子達は二人で、彼らはバプテスマのヨハネの弟子達であったということです。一人はアンデレでペトロの兄弟でもう一人の名前は出てきません。この名前の出てこない弟子は諸説あるのですが、ゼベダイの子ヨハネとも言われています。

 そしてこの二人の弟子達が主イエスの元に弟子入りをしたきっかけになったのがバプテスマのヨハネが主イエスを評した言葉「見よ、神の小羊だ」(ヨハネによる福音書1章36節)です。

バプテスマのヨハネがなぜこのように主イエスを評したのかは本日の聖書箇所の前の箇所、小見出しで「神の小羊」と書かれている箇所をお読みいただければおわかりになると思います。特に32節から33節に書かれている箇所に注目です。

「そしてヨハネは証しした。『わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊“が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。』」

これはバプテスマのヨハネの証です。以前私はマタイによる福音書だったと思うのですが、主イエスの洗礼の箇所を説教したと思うのですが、3章16節にも同じようなことが書かれています。

 ですから、バプテスマのヨハネはそれを踏まえた上で主イエスを「神の小羊」であると評したのです。そしてこのバプテスマのヨハネの証を聞いたので、このヨハネの弟子達は主イエスの方に行き、弟子入りしたということです。この二人の弟子達の弟子入りの経緯を見てみますと主イエスが何かことさら彼らを求めて、つまり無理くりに彼らを弟子入りさせたということではなく、ごく自然にバプテスマのヨハネの弟子達が主イエスの所に赴き、弟子入りをしたということです。私はそれが重要なことだと思うのです。これこそが神のやり方であり、ご計画であろうと考えます。ある宗教団体の勧誘では宗教団体の勧誘と名乗らず、最初何か大学のサークル活動や趣味の活動として勧誘するそうです。そしてそのターゲットになった人たちの弱みに漬け込んで徐々に宗教勧誘を行い、脅したり、すかしたりするとのことです。また何か問い詰められるとはぐらかすそうです。これらはいわゆるマインドコントロールというものです。

これは何も宗教勧誘だけにとどまりません。人間関係、何かの営業活動にも見られることです。相手を自分のペースといいますか、自分の価値観の支配下に置くのです。

例えば以前母親が自分の子供に食事を取らせなかったという事例があったのですが、調べてみますとその母親の友人がそのようにするように命令していたそうです。つまりその母親はこの友人の支配下にあったということです。

私達も気をつけないといけませんね。

 話が少し脱線してきましたので元に戻しますと、神のご計画というものはこのような人間的な無理強いするようなものではなくごく自然なものであるということです。

例えば、このバプテスマのヨハネの弟子達が主イエスに従うようなことです。通常であればバプテスマのヨハネは主イエスに弟子を取られたわけですから主イエスに対して怒らなければなりません。ですが、バプテスマのヨハネは怒りませんでした。その理由はそれが神の御心であるということをわきまえていたからです。

ヨハネによる福音書3章22節から36節にかけてその事が書かれています。26節でバプテスマのヨハネの弟子達がバプテスマのヨハネに、主イエスが洗礼を授けていて、多くの人々が主イエスの元に向かっていると言っている場面があります。彼らは主イエスが自分の師のヨハネより多くの人々を集めているのを妬ましく思い、そのような事を自分たちの師であるヨハネに言ったのでしょう。しかし、ヨハネはその事、つまり主イエスの元に多くの人々が集まってくるのを受け入れる発言をしたばかりか、むしろそれを喜んでいるとまで言いました。27節から29節です。そして「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」と30節で言いました。つまりヨハネの弟子達が主イエスの元に行って弟子入りした事も怒らず、受け入れ、むしろ喜んでいたのです。なぜなら、それが神のご計画だったからです。

 さてこのバプテスマのヨハネの弟子達が主イエスの元に行き、弟子入りをするのですが、そのやりとりはどうだったでしょうか?

主イエスは自分の元に向かってくる彼らに対してこう仰いました。「何を求めているのか。」

この言葉は主イエスに病気を癒やしてほしい、悪霊を払ってほしいと言って来る人々に対してよく仰る言葉です。

私達は何を求めているのか、何を主イエスにしていただきたいのか正直に話す必要があるのです。

さて主イエスのこの言葉を受けての弟子達の返答です。

「どこに泊まっておられるのですか」

直接に弟子にしてほしいとは言いませんでしたが、主イエスが泊まられている場所を聞いていますね。

それに対して主イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と仰っています。

「どこどこに泊まっています。」と主イエスは言われても良かったのです。ですが主イエスは彼らに「来なさい。」と言われました。そして彼らは主イエスとともに行き一緒に泊まったということです。師と弟子達の間の親密さがあるのです。

 その後アンデレが自分の兄弟であるペトロを主イエスの元に連れてくるのです。そして主イエスは彼とお会いになられ、彼をケファ(岩)と呼ぶことにすると仰ったのです。ここで注意しなければならないことがあります。このヨハネによる福音書でのペトロの召命というのは実にあっさりしています。そして彼の兄弟であるアンデレが先に主イエスの弟子になり、彼がペトロを主イエスの元に連れていき、弟子となりました。しかもここでペトロのセリフは一つもありません。他の福音書ではペトロとアンデレが漁師で主イエスが彼らに声をかけ、弟子となったと書かれていますので本日の聖書箇所とはかなり異なっています。

(マルコによる福音書1章16節から20節、マタイによる福音書4章18節から20節、ルカによる福音書5章1節から11節)

マルコ、マタイ、ルカは共観福音書と呼ばれある程度共通している箇所があるのですが、ヨハネは3福音書とは趣がことなっているので、ペトロの召命物語のような違いが出てくるのです。それぞれを見比べてみるのもいいと思います。

 さてアンデレ、彼の兄弟ペトロ、そして名もなきもう一人が主イエスの弟子となりましたが、次にフィリポとナタナエルが主イエスの弟子達となります。最初にフィリポに出会った時に主イエスは彼に「わたしに従いなさい」と言われました。そしてすぐ彼は従いました。彼には確信がありました。だからこそすぐに従ったのです。彼が友人ナタナエルに会った時にこのように言ったのです。

「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。」(45節)

律法と預言者は聖書全体を表すと言われています。つまり聖書全体を表す方こそ主イエス・キリストであるということです。しかし、ナタナエルは彼の考えを否定します。

「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言いました。ガリラヤ地方のナザレという町は当時のユダヤ人にとってはあまり重要な場所ではなかったということです。ガリラヤ地方はユダヤ人の土地ではあったのですが、多くの異邦人や異邦人とイスラエル人との間に生まれた人々が住む土地になってしまったのです。ですから、その地方のナザレから何か良いものが出るのか?といったナタナエルの馬鹿にしたような質問も当然のことなのです。ですが、フィリポは言います。「来て、見なさい。」と。

 その言葉に応じて主イエスの元に向かってくるナタナエルを主イエスはこう評されます。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」

素晴らしいですね。

ナタナエルが主イエスにどうして彼を知っているのかと尋ねて、主イエスは彼がフィリポに話しかけられる前にいちじくの木の下にいたことをご指摘されます。まさに千里眼ですね。奇跡です。その奇跡を目の当たりにしてナタナエルは主イエスを信じたのです。

ですが、主イエスは50節で「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。」と言われました。つまり奇跡を目撃したから信じたということです。

ですから、主イエスのこのご指摘というのはある意味厳しいのです。と申しますのはこれまでの弟子達は奇跡を見ないで弟子入りしました。もちろん、ヨハネの弟子達は師であるヨハネの言葉に後押しされて弟子入りしましたし、フィリポは実際に主イエスに直接会われて弟子入りしました。しかし、彼らは奇跡を見ないで主イエスを神の子である、メシアであると認めて主イエスに弟子入りしたのです。ですが、ナタナエルはどうでしょう?奇跡を見て弟子入りしています。もちろん、奇跡を見ても主イエスを受け入れないで十字架にかけてしまった人々に比べればよいのですが。

何が言いたいかというと、見て信じるよりも見ないで信じることが幸いであるということです。主イエスがご復活されて弟子達の前にご自身をお示しになられたことがありました。しかし、その場に居合わせなかったトマスは主がご復活されたことを否定しました。そして今度は彼がいる時にご復活された主イエスがご自身を現されました。その時にトマスは主イエスを信じたのですが、その時主イエスが仰った言葉は「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」です。

主イエスがナタナエルに仰った時もそのような気持ちではなかったのではないでしょうか?

神はご計画に従ってご準備されるのです。それは私達人が無理くりどうかするものではありません。またどうかしようとするとどこかで綻び、無理が生じます。私達の側に求められることは何でしょうか?神に素直に従うことです。

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