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「朽ちる栄光と朽ちない栄光」

2020年10月25日 降誕前第9主日礼拝 

説教題:「朽ちる栄光と朽ちない栄光」

聖書 : 新約聖書 コリントの信徒への手紙二 3章7-18節(328㌻)    

説教者:伊豆 聖牧師


律法と福音はパウロを悩ました問題の一つでした。パウロとバルナバが異邦人の間で伝道をしていた時、ユダヤから下ってきた人々が異邦人でキリスト者になった人々に律法に従って割礼を受けなければ救われないと言っていました。そのことでパウロ、バルナバとそのことを主張する人々(律法主義のキリスト者達)の間で激しい論争が起こり、この問題を話し合うため、彼らはエルサレムに行き、使徒会議に参加しなければなりませんでした。その時の事情は使徒言行録15章1節から35節に書かれていますが、会議の結論として、異邦人でキリスト教に改宗した人々はモーセの律法に従って割礼を受ける必要はないということになりました。その事は15章8節から11節、19節から20節、28節から29節に書かれています。確かに、エルサレム会議では異邦人からキリスト教に改宗した人々がモーセの律法に従って割礼を受ける必要はないということが決まりました。しかし、異邦人にモーセの律法を守らせるべきであるという律法主義のキリスト者たちの抵抗は根強く、パウロが立ち上げたコリントの教会にも入り込んできて、パウロを激しく攻撃しました。そして、パウロはその攻撃に対して反論しなければいけませんでした。そのために、パウロは本日の聖書箇所で律法と福音の事を語らなければいけませんでした。

コリントの信徒への手紙二3:7 に書かれている「石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務め」とは何でしょうか?主なる神からシナイ山でモーセを通してユダヤの民に与えられた十戒(十の戒め)です。それは二枚の石の板に刻まれていました。であるので、それは律法を守り、律法に生きるということです。しかし、気になるのは「死に仕える務め」です。どういうことでしょうか?パウロはローマの信徒への手紙7章9節から11節でこのように言っています。「わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。」

パウロはここで律法は私達に罪をもたらし、最終的に死をもたらすと言っています。このことが律法を守る、律法に生きることが死に仕える務めであるという理由です。もちろん、律法は神がモーセを通してイスラエルの民に与えた物ですので、悪ではありません。パウロ自身、ローマの信徒への手紙7章12節でこのように言っています。「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。」だからこそ、パウロは本日の聖書箇所7節で「石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務め」すなわち律法が栄光を帯びていて、神と出会い、十戒が書かれた石版を受け取ったモーセの顔が栄光で輝いていたというのです。しかし、その栄光は「つかのま」だというのです。

7節でパウロは律法に生きることを「死に仕える務め」であり、「つかのまの栄光」であると言っているのに対し、8節で「霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。」と言っている。「霊に仕える務め」とはなんでしょうか?それは福音に生きるということです。そのほうが律法に生きることより、はるかに栄光を帯びているとパウロは言うのです。9節では律法に生きることを「人を罪に定める務め」と呼び、福音に生きることを「人を義とする務め」と呼び、この福音に生きるほうが律法に生きることより栄光を帯びていると強調しています。

そして、11節でパウロは律法を「消え去るべきもの」そして福音を「永続するもの」としてこの「永続する福音」の方が「消え去るべき律法」よりはるかに優れていると言っているのです。朽ちない栄光である福音のほうが朽ちる栄光である律法よりはるかに勝っていると言っているのです。

パウロはモーセの顔が栄光で輝いていたと言っていましたが、それは「つかのまの栄光」であったと7節で言っています。そしてその「つかのまの栄光」を象徴しているのが13節に書かれているモーセの顔覆いです。モーセは神との出会いによって得た自分の顔のつかのまの栄光が消え去るのをイスラエルの民に見せないように自分の顔に覆いを掛け、律法を信奉する人たち(律法主義者)の心にはそのモーセの覆いが掛かっていて、唯一、その覆いを取り除く方法は、律法に生きることをやめ、キリストの方を向き、福音に生きることだとパウロは言います。パウロは14節で「それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。」、16節で「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。」と言っています。

私達は律法主義者たちのように朽ちる栄光をもたらす律法に依存してはいないでしょうか?私達は朽ちない栄光をもたらす主イエスの方を向いて日々歩んでいるでしょうか?もし、歩んでいるとするなら、私達の心のなかにある顔覆いが取り除かれて、神の霊によって日々成長することが出来るのではないでしょうか?

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