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「正しい服従」

2023年8月27日 聖霊降臨節第14主日

説教題:「正しい服従」

聖書 : 旧約聖書 出エジプト記 23章10節-13節(132㌻)

   新約聖書 ルカによる福音書 14章1節-6節(136㌻)​

説教者:伊豆 聖牧師


 「服従」という言葉は私達に否定的な印象を与えます。たぶん、「先輩」と「後輩」の間で先輩が後輩にいやなことを強制させるイメージです。「先生」と「生徒」や職場での「上司」と「部下」の関係もそのようなものかもしれません。もちろん、昔ながらの、昭和の時代であれば、そういう事がまかり通ったかもしれませんが、令和の世の中ではそのような前時代的な服従を強いるような関係というのは表向きは好ましからざることとして否定されます。


 例えば、数年前ですが、ある大学の有名なアメフト部の選手が違反のタックルを相手チームの選手に行ったのですが、違反だと分かっていてこの行為を行ったということと当時のコーチから強制されてやったということがありました。この事は当時問題となりました。当然のことながら違反と分かって行ったという事も問題なのですが、指導する立場の人間が選手に強制して行わせたということも問題だったのです。当然のことながら、この事は世間一般の批判を浴びました。強い立場の人間が弱い立場の人間になにかを強制することはいけないという考え方が、人権に対する考え方が成熟すると共に浸透してきたと考えられます。これは何も人間関係だけにとどまりません。


 例えば、大手小売業のお店がそのお店に商品を納めている業者になにかキックバックや人的負担や経済的負担を負わせることは政府の監督官庁に禁じられていますし、もし見つかれば、指導が入ります。

先程も申し上げたように、この「強制」という言葉は現代の令和の世、「多様性」、「自由」、「権利」を重んじる世の中ではあまり人々に受け入れられないのかもしれません。


 ですが、この様な社会であっても、法律、ルールというものがあり、私達はそれに従って生きなければなりません。もちろん、生きなくても良いのですが、もしそのルールを破ると何らかのペナルティーが課せられます。考えられるのは罰金なのですが、刑務所に収監されるかもしれませんね。つまり、私達は何をしても良いわけではないのです。 

そういう意味で私達は社会のルール、法律に強制されて生きているといっても過言ではないのです。ですが、私達はそれを受け入れています。なぜなら、私が前に挙げた前時代的な「強制」と法律に従う「強制」とは違うからです。私達は法律に従う「強制」は必要であると考えます。


 さて、本日の第一の聖書箇所もまたこの法律に従うことが書かれています。出エジプト記23章10節から13節までです。

私達は人が作った法律を守っているのですが、この聖書箇所に書かれている法律、律法というのですが、これは主なる神がイスラエルの民に与えた法律です。これは当然のことながら、「強制」でありますが、イスラエルの民はそれに従う義務があったわけですね。その義務とは何かというと神が命じたからです。神はイスラエルの民の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブに約束しました。「あなたの子孫を祝福し、約束の土地に入らせる」と。そしてこの神の律法がイスラエルの民に与えられた時点ではまだ約束の土地を与えられてはいません。ですが、神はエジプトで奴隷状態であったイスラエルの民をエジプトから連れ出し、お救いになられたのです。そのような神から与えられた律法を守るのは当然のことではないでしょうか?


 さらに言うならば、主がイスラエルの民に与えられた律法はどれも理にかなった正しいものでした。社会で人々が生活するにあたってはルールが必要です。しかもそのルールというのは正しくなければなりません。だからイスラエルの民はこれらの神の律法を守るべきだと私は考えます。この神の律法が正しいことは周辺諸国の民ですら認めていたことでしょう。申命記4章6節にはこのように書かれています。

「あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、『この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である』と言うであろう。」


 律法は細かく多岐に渡っているのですが、本日の聖書箇所は安息年と安息日についてです。10節と11節は安息年について書かれていますが、なぜこのような事を神は命じたのでしょうか?

「意味なんて関係ない、神が命じたから従うだけだ。」という考えもあるでしょう。しかし、それだけで良いのでしょうか?

神が安息年をお定めになられた理由は人も土地も安息(休み)が必要だということです。この教会に来られている方々はもう既にリタイアされた方々が多くいらっしゃるのであまりもう実感はないとは思うのですが、会社などで今現在働いている方々などは休みなく働いていたとしたらどうでしょうか?大抵は燃え尽きてしまい、精神的にも肉体的にも参ってしまい、仕事をやめてしまうか、それ以上に酷い結果を招いてしまうかもしれません。


 この律法によって、安息年(七年目)に人々は休むことが出来るのです。人々だけではなく土地も休むことが出来るのです。これもまた重要なことです。土地がずっと連続して種を蒔かれ、その産物を取り入れられたとしたら、その土地そのものがやせ細ってしまうからです。

ですから、この安息年というのはイスラエルの民と土地に対しての神のご配慮であるということが言えるわけです。数字に注目です。六年間は土地に種を蒔き取り入れ、七年目は安息年でその土地を休閑地とする。

創世記で神は六日間で天地を創造されました。そして七日目に休まれました。(創世記1章1節から2章3節)この六年間、七年目もそれに倣っています。


 また、神がこの安息年を設けてその土地を休閑地としたのは、その年に貧しい人々や獣が食べられるようとのご配慮です。当然貧しい人々とは当時普通にその土地の収穫物を食べる機会は多くなかったと思います。ですから、彼らはその安息年にその土地に残った収穫物(そんなに多くはないでしょうが)を食べることが出来たでしょうし、また獣もそれら残りを食べる事によって凶暴になって人を襲ったりしなくてすんだであろうと思われます。必ずとは言いませんが、貧しくて食べられない人々が多くなると彼らが犯罪に走るようになってしまうでしょうし、獣もまた食料が少なくなると人を襲うかもしれません。ですので、神はそのような細やかな配慮をされ、この律法を民に与えられたということです。本当に神のこの細やかさには驚いてしまいます。

続く12節では安息年だけでなく、安息日について書かれています。

再び数字に注目です。「六日の間働き、七日目は休みなさい。」と書かれています。これもまた前述と同じように、創世記に倣っていますね。

そして、目的は何でしょうか?「それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。」(12節)

と書かれています。ここには書かれていませんが、イスラエルの民も含まれます。つまり、イスラエルの民だけでなく、その他の社会的弱者そして動物までが休むことによって元気を回復するために安息日を設けたということです。つまり、神が安息年、安息日を設けたのは私達の事を心配して設けたのだということです。

最後にこの神の律法を守り、他の神々の名前を口にしてはならないとしています。


 ここまで、見てきますと、神は正しい方であり、この律法自体も私達の事を思って設けられた正しい、理にかなった法律であるので、イスラエルの民が従うのが当然だったのですが、彼らは度々神に逆らい、律法を破ってきました。それは自分の好きなように生きたいという思いで。自由を履き違えて生きる道を選択してしまったからです。

神の律法には従いたくない、自分勝手に生きたいでも神に守っていただきたい、何か危機が迫って来たら、救って欲しい、私達は神の民なのだからということです。果たしてそのような言い分が通じるでしょうか。ですので、度々彼らは神の怒りを引き起こし、ひどい目に遭ってきました。


 本日の第2の聖書箇所です。主イエスが水腫を患っている人をお癒やしになられた場面です。しかし、その日は安息日でした。当然、上の安息日の規定に反したことを主イエスはなさいました。ですから、神を軽んじ、神の怒りを引き起こしたはずだと思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、主イエスが引き起こしたのはファリサイ派の人々、律法学者達の怒りでした。


 主イエスがその水腫の人を癒やされる前に律法学者達やファリサイ派の人々に仰いました。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」(ルカによる福音書14章3節)

明らかに主イエスは彼らに挑戦しています。すると彼らは黙っていました。そして主イエスはこの水腫の人を癒やされました。彼らの沈黙こそ彼らの主イエスに対する怒りを表しているのではないでしょうか?

そして彼らは事あるごとに安息日に病人を癒やされる主イエスに敵対してきました。


 彼らの行動は律法主義です。神が与えた律法に書かれているから、それに従わなければならないというものです。

もちろん、ルールは必要ですし、守らなければいけません。しかし、大切なのは神の御心です。神は何を思って安息日、安息年を制定されましたか?民に休みを与え、活力を取り戻させ、再び元気に仕事をさせるために制定されました。安息日だからといって、病人を癒すことをしないことが神の御心でしょうか?主イエスはこうも仰いました。

「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」

(ルカによる福音書14章5節)


 神が私達に求めているのはファリサイ派の人々や律法学者達が主張する律法主義による「服従」ではないのです。神の御心を知り、それに従う「服従」なのです。どのようにして神の御心を知ることが出来るのでしょうか?それは日々の聖書の学び、祈り、信仰、そしてなによりも聖霊によってです。ですが、それが難しいのです。なぜなら、私達は具体的な物に頼りがちだからです。例えば、律法、または法律というものは書かれているので具体的なものです。ですから、分かり易いのです。

ですが、神の御心は目に見えないものだからです。だからこそ、祈りが必要なのです。また、神の御心を知ったとしても、神の怒りや罰が怖いから従うというのもまた「正しい服従」とは違う気がします。それでは私達はムチを恐れる奴隷と同じではないでしょうか?そのような服従を神は私達に求められているでしょうか?違うと思います。むしろ喜んで神に従うことを求められていると思います。


 それは主イエスが自分勝手に語らず、父なる神に従い語られたようにということです。

「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」(エゼキエル書36:26-27)

「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」

(エレミヤ書31章33節)

この様な状態にしていただくのです。どうしたらこの様な状態にしてもらえるのか?

主イエスを求め、主イエスを愛することではないでしょうか?

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」

と主イエスはヨハネによる福音書14章15節に書かれています。

私達は主イエスを求める飢え、乾きがあるでしょうか?

主イエスを愛しているでしょうか?

私達が神の御心に適う「服従」をするのならば、神は私達を正しく歩ませてくれます。



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