「母の愛」
2023年5月14日 復活節第6主日
説教題:「母の愛」
聖書 : 旧約聖書 列王記上 17章17節-24節(562㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
本日は母の日ですね。ある姉妹にこの講壇横に飾られている素晴らしいバラを持ってきていただき、別の姉妹には混ぜご飯を作っていただきました。感謝です。母の日というと日頃の母の労苦を労い、母への感謝を表す日なのですが、今回はというか、今回も逆に女性の方々に色々としていただくという逆転現象のようなことが起こっていまして、ひたすら恐縮しつつ、感謝しております。
去年もお話させていただきましたが、日本の母の日はアメリカの母の日から来ていますので、アメリカの母の日の事をお話させていただきます。1907年5月12日にアンナ・ジャービスという女性が2年前に亡くなった彼女の母アン・ジャービスを偲び、彼女が通っていた教会で記念会を開き、白いカーネーションを贈ったのが起源とされています。彼女の母であるアン・ジャービスはその教会で日曜学校の教師をしており、またアメリカでの南北戦争の時、敵味方関係なく、負傷兵の衛生状態改善のために地域女性を結束させました。
そのような事もあって娘は母を偲び、このような行動をとったのだと考えられます。やがてこの娘の母への思いに共感した人たちが次の年1908年5月10日に集まり、「母の日」を祝ったということです。集まった人たちは生徒470人と母親たちです。1914年にこの「母の日」はアメリカの記念日となり、5月の第2日曜日と定まったということです。
さて、本日の聖書箇所です。預言者エリヤの話です。彼は旧約聖書時代にイスラエル王国で活躍した人物です。もう何度かお話しているのですが、ユダヤ人の国は元々一つだったのですが、それがイスラエル王国とユダ王国の2つに別れてしまいます。その原因となったのは主に愛されていたダビデ王の子ソロモン王が初めは神に従って、愛されていたのに、後に主を捨て、偶像の神々に仕えた事によります。イスラエル王国とユダ王国は双方とも神に逆らい続けました。ですが、神は彼らを見捨てずに預言者を送り続け、神に立ち返るよう、彼らに働きかけ続けたということです。つまり、預言者が活躍するということは、その国が信仰的には悪い状態にあると考えてもらって良いと思います。経済的に栄えているかどうかはわかりませんが。
つまり、預言者エリヤがイスラエル王国で活躍したということはイスラエル王国が信仰的に悪い状態にあったということです。当時、イスラエル王国を治めていたのはアハブという王でした。彼は偶像の神々を拝み、主なる神を捨て、主の預言者を迫害し続けました。本日の話の後になるのですが、主の預言者であるエリヤと偶像の神の預言者が対決する場面がありますが、エリヤが勝ち、彼らを殺してしまいます。その後、このアハブの妻であるイザベルはこの事を聞き、エリヤを殺そうとしますが、エリヤがホレブ山に逃れる場面が出てきます。さらに、アハブ王がナボトという人物が持っているぶどう園が自分の宮殿の横にあったので、それを売ってくれるよう彼に頼むのですが、ナボトはそれを拒否します。それでアハブ王は不機嫌になるのですが、王の妻イザベルはナボトに対して「神と王」とを呪ったという偽証人を二人立てて、彼を石で撃ち殺させるよう、ナボトが住んでいる地域の長老や貴族に指示し、その通りになります。その後イザベルはアハブにそのナボトの土地を手に入れるようそそのかし、まんまとアハブはそれを手に入れたということがありました。要するにはこの当時のイスラエルという国は信仰的にも、そして倫理的にもひどい状態であったのです。
そういった状態の中で預言者エリヤはアハブ王に数年の干ばつを預言するのです。当然のことながら、これは主のご意思によるものです。つまり、罰ですね。しかし、預言者エリヤは主によって養われました。主が預言者エリヤに下した命令はこれでした。
「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」(列王記上17章3から4節)
彼は川の水を飲み、烏が朝と夕、パンと肉を運んできたということでした。
その後、主がエリヤを養うために用意された方法とは息子を持つやもめに養わせるものでした。もちろん、この時代のやもめという存在は決して裕福ではありませんでした。主はエリヤに、やもめに彼を養わせると宣言されました。常識では考えられません。ですが、エリヤは主の言葉通りにやもめに声をかけ、水を飲ませてくれるように頼みます。そして水を取ってこようとした彼女にさらにパンも持ってくるよう頼みます。ですが、彼女はパンなどはないと言います。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」
(列王記上17章12節)
もう彼女と彼女の息子の人生は絶望的ですね。そんな中で他人のためにパンなどを作っていられる余裕なんてないのです。
ですから、そんな彼らに水はともかくとしてパンなどを要求すること自体、非常識と言わざるを得ません。
しかし、エリヤは彼女にその残っている小麦粉と油でパン菓子を作るよう言い、その後、彼女と彼女の息子のために何か作れば良いと言うのです。何という傲慢なことでしょう。しかし、エリヤはさらに続けてこう言うのです。
「なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることなく瓶の油はなくならない。」(列王記上17章14節)
やもめはエリヤの言葉通りにすると、その言葉通り、食べ物に不自由しなかったという事です。
主のなさることは私達の常識を遥かに超えています。そしてこれで、めでたしめでたしなのでしょうが、不幸がこのやもめの一家を襲いました。彼女の息子が病気にかかって亡くなってしまいます。
彼女はこのように言ってエリヤを責めます。
「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」(列王記上17章18節)
人間というものは弱いものですね。主はやもめを通してエリヤを養わせると仰ったのですが、このやもめは自分がいま置かれている状況、壺の粉と瓶の油を見て、パンを焼いてエリヤに渡すのは無理だと判断します。つまり現実を見て判断したのです。しかし、この現実を主は奇跡によって変えてくださりました。たぶん、彼らは喜んだに違いありません。主の御名を褒め称えたに違いありません。しかし、今度は病気によって彼女の息子が亡くなってしまうという現実を経験すると、彼女はエリヤを非難したのです。人間とは弱い者であり、私達もまた目の前の現実に右往左往する哀れな存在だということを彼女を通して学ぶことが出来るのではないでしょうか?そして彼女のこの言葉は私達の弱さだけでなく、彼女がいかに彼女の息子を愛していたかということを私達に教えてくれます。いわばこれが母の愛なのです。もちろん、この彼女の言葉には絶望が伴っていて、負のエネルギーといいますか、死のエネルギーで満ちているのですが。
そんな中でエリヤは彼女の息子を彼女から受け取り、主に祈るのです。彼の祈りは20節では主が彼女の息子の命を取ることへの非難と受け取られても仕方のないものでした。しかし、21節では彼女の息子の命を元に返すよう祈っております。つまり、絶望して非難をしているだけではないのです。祈っているのです。エリヤの主に対する信頼、すなわち主に彼女の息子を生き返らせて頂けるという信頼によってです。だからこそ、主はエリヤの願いを聞き入れ、彼女の息子を生き返らせてくれたのです。もちろんエリヤは主を信頼して祈りましたが、その原動力はやはりこのやもめの嘆きを聞いたからに違いありません。つまり母の愛に突き動かされたからと考えるのです。
ですが、大切なことが一つあります。それは主に対する信頼です。信仰です。それはここでの母の愛よりも大切なことです。確かに彼女の一人息子への愛というものは想像出来ない程強いものであったことでしょう。ですが、それはエリヤを非難するところまでしか行かなかったのです。確かに結果としてエリヤを祈りへと突き動かしました。しかし、このやもめ自身が主に祈ることはなかったのです。もちろん、エリヤが祈り、やもめの息子は復活し、この事によって主の栄光が表されたことは素晴らしいことです。そしてやもめ自身もこのように言っています。
「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」
(列王記上17章24節)
ですが、やもめ自身が主を信頼し祈れるようにならなければいけなかったのです。つまりは母の愛以上の信仰を持つことが大切なのです。
新約聖書でも主イエスは死者を復活させる奇跡を起こされました。ある会堂長の亡くなられた少女を復活させ(マルコによる福音書5章35節から43節)、ラザロを復活させました。(ヨハネによる福音書11章1節から27節)
ラザロが亡くなられる時、主イエスはその場所にはおられませんでした。亡くなってから、来られたのです。そしてラザロの姉妹であるマルタは主イエスに非難めいた言葉を口にしました。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」
(ヨハネによる福音書11章21節)
この言葉は母の愛の表れではありませんが、自分の兄弟に対する愛の表れと見て取れます。それに対して主イエスはこのようにお答えになられています。「あなたの兄弟は復活する」(ヨハネによる福音書11章23節)
しかし、マルタはそれを終わりの日に復活すると勘違いしてしまいました。ですので24節のように答えたのです。
またラザロのもう一人の姉妹のマリアも主イエスに会うと、マルタと同じことを言い、泣き始めた。彼女もまたラザロを愛していました。それはマルタがラザロを愛していたように。しかし、この愛もまた主イエスを突き動かし、ラザロをご復活させることに繋がったでしょう。しかし、彼女たち自身は主を信頼していなかったのです。つまり、主イエスが命であり、甦りであり、死者を復活させる権威をもっていることに気づかなかったのです。だからこそ、この負のエネルギーの中で主イエスは涙を流されたのです。この二人を始め周りの人間は負のエネルギーに包まれて、主を本当に信頼していないからです。この後、主イエスはラザロを復活させるのです。
母の愛は素晴らしいです。しかし、もっと大切なことは主を信頼する信仰を保ち続けることです。
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