「永遠の住み家」
2024年9月29日 聖霊降臨節第20主日
説教題:「永遠の住み家」
聖書 : Ⅱコリントの信徒への手紙 5章1節-10節(330㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
私たちが生活をしていくのに必要なものとは何でしょうか?着るもの、食べるもの、そして住む場所ですね。ようするに衣食住です。住む場所は大切です。私たちは雨露を防がなくてはいけませんし、夏の暑さや冬の寒さを防いで生活をしていかなくてはなりません。そのためには住む場所は必要ですし、それが与えられているということは感謝です。住みかというものは私たちに安心感を与えます。逆に住みかがないということは私たちに不安を与えます。
例えば私は去年アメリカのナザレン世界大会に通訳として奉仕をしに行きました。もちろん、その奉仕内容に関して注意深く、色々と調べました。しかし同時に私たちの泊まる場所はどこであろうかということも気になり、アメリカの責任者の方とメールのやりとりをいたしました。アメリカに滞在した期間はそれほど長くはなかったのですが、それでもその間の私の住みかについて私は気になってしまいました。それだけではありません。私は神学校時代に夏期派遣で地方の教会に派遣され、奉仕をいたしました。そこでもどこに泊まるのかということを考えてしまいました。
やはりそれだけ住みかというものが大切だからであると私の意識の中にあったのだろうと思います。
本日の聖書箇所に入っていきます。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」
(IIコリントの信徒への手紙5章1節)
言葉自体がわかるけれども何を意味しているのかよくわからない言葉が出てきていますね。「地上の住みかである幕屋」「神によって建てられた建物」「人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか」ですね。
「地上の住みかである幕屋」とは何でしょうか?私達がこの地上で住んでいるのだから私達の家のことじゃないかと思われるかもしれません。ですが私達は聖書のことをはなしているのだから教会じゃないのかと思われるかもしれません。幕屋というのはテントのことです。古代のイスラエル人は幕屋で生活していたことがあります。出エジプト時代には神の箱も幕屋にあって移動していました。この手紙を書いたパウロはテント作りを仕事としていました。これらの事が結びついて「地上の住みかである幕屋」とは教会のことではないかと考えられなくもありません。しかし違うのです。「地上の住みかである幕屋」とは比喩的表現で本当の意味は私達の体のことです。では神によって備えられている建物、「人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか」とはなんでしょうか?それは私達が亡くなった後に神によって与えられる体のことです。
私達は必ず亡くなります。つまり私達の体である地上の住みか、幕屋は滅びるとパウロは言っています。ですがそれで終わりではないのです。その後に神によって永遠の住みかである新しい体が与えられるとパウロは言っているのです。ここに私達キリスト者の希望があります。この事を表しているのが次の2節です。
「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。」
「住みかを上に着たい」というのは面白い表現です。「住みか」という言葉があれば、普通「住みたい」などという言葉が後に続きますが、「着たい」という言葉が後に続いていますね。パウロはよくこの「着る」という言葉を私達の感覚ではおかしいと思われる場面で使っています。ローマの信徒への手紙13章14節にはこのような事が書かれています。「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」
またガラテヤの信徒への手紙3章27節には「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」
私達はよく着ている服装で判断されます。変な格好をしていればあの人は変な人だと思われます。そしてTPOにあった服装をしなければいけません。もちろん、服装ではなく中身を見てほしいと言われる方もいらっしゃいますが。ではキリストを着るということはどういうことかといいますと表に現れる普段の言動においてキリストを表すことです。
さてパウロは神から与えられる新たな肉体を身に着けたいと願っているわけです。希望です。ですが、今パウロはこの地上で肉体を持って生きていて苦しんでいるわけです。だからこそ希望が必要なのです。
「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。」(3節)はどういうことでしょうか?「それ」とは私達の今の体のことです。「それを脱いでも」とは私達がやがて亡くなることを指します。ですがそういう時でも「わたしたちは裸のままではおりません。」とあります。それは死んだままではなく、新しい体を着せられるということです。
さらに4節に進むと、やはりこの地上で肉体を持って生活をしているので重荷を負ってうめいていると言っています。しかし早くこの地上での生活を終わらせたいと言っているのではないというのです。本来罪において死ぬべきはずであった者(自分なのですが)が救われたということを確信しているからです。だからこそ、うめきつつも神から与えられる新しい体を待ちわびているのです。
このように死ぬべき体が新しい体に生まれ変わるのにふさわしいようにしてくださったのはだれか?それが神であるとパウロは言っているのです。神はその証拠として聖霊をお与えになられたのです。だからこそパウロは心強いと言っているのですが、まだ地上において肉体を持って生活をしているので神から離れているのも事実なのです。つまりまだ新しい体を神からいただいていないからです。だからこそ神から離れているのも事実として確信しているとパウロは言っているのです。
なぜ確信しているとパウロは言えるのか?言い切れるのか?
それは7節に書かれているように「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」ということです。この事についてはヘブライ人への手紙11章を読めばよりよくおわかりになるかと思います。
だからこそ、パウロは自信を持っているのです。「わたしたちは心強い。」と8節で言っているとおりです。彼としては体を離れて主と共に住みたいと願っています。しかし9節で彼は肉体を持って生活をしている地上であれ、この肉体を離れて、神に造られた新しい肉体を持って生活をする天上であれ、主に喜ばれるようにしたいと考えているということです。これこそキリスト者の態度ではないでしょうか?
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