「永遠の祭司」
2021年1月17日 降誕節第4主日礼拝
説教題:「永遠の祭司」
聖書 : 新約聖書 ヘブライ人への手紙 7章16-19節(408㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
祭司とは神と私たちとの間に立てられた仲介者です。その役割とは供え物やいけにえを捧げることによって私たちの罪の贖いをする事です。この事は同じヘブライ人への手紙5章1節に書かれています。この祭司はイスラエルのレビ族の中から代々選ばれてきました。旧約聖書の出エジプトに出てくる祭司アロンもレビ族の出身で、祭司はレビ族から選ばれるということが律法で決められました。この規定は申命記18章1節から8節に書かれています。「レビ人である祭司、レビ族のすべての者には、イスラエル人と同じ嗣業の割り当てがない。彼らは、燃やして主にささげる献げ物を自分の嗣業の分として食べることができる。同胞の中で彼には嗣業の土地がない。主の言われたとおり、主が彼の嗣業である。」(申命記18:1-2)レビ人は奉仕の報酬として十分の一を受取ることが出来、さらに嗣業として土地を持っていなくても、イスラエルの全土に彼らの住む土地を与えられていましたので、彼らは生活に困ることはありませんでした。重要な事はレビ族の中から祭司が選ばれ、その祭司の職が世襲されるという事が律法で定められたという事です。
そして、本日の聖書箇所であるヘブライ人への手紙7章16節です。「この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。」ここで言われている祭司とはイエス・キリストを指しているのですが、律法において彼は祭司であり得ない訳です。それは14節に「わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです。」と書かれています。では、律法によって定められていないから、主イエスは祭司ではない、とこのヘブライ人への手紙を書かれた著者は言っているのでしょうか?違います。彼は律法に定められていない、そして律法で定められた祭司よりはるかに優れた祭司を登場させます。メルキゼデクです。17節に「なぜなら、『あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である』」と証しされているからです。」と書かれています。この17節に書かれている「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」という証は詩篇110章4節「主は誓い、思い返されることはない。『わたしの言葉に従ってあなたはとこしえの祭司メルキゼデク(わたしの正しい王)。』」を引用しています。
なぜ詩篇の著者はここでレビの祭司、アロンの子孫の祭司ではなく、祭司メルキゼデクを登場させたのでしょうか。それは祭司メルキゼデクがレビの祭司よりはるかに優れた祭司であると考えたからではないでしょうか?そして、この手紙の著者もこの詩篇の著者と同じ様に考えたのではないでしょうか?すなわち、レビ以外の祭司は存在し、その祭司はレビの祭司よりはるかに優れた存在であるということを。その祭司こそがメルキゼデクであり、主イエス・キリストであるという事です。祭司メルキゼデクがレビの祭司よりはるかに優れた祭司であるということは同じ7章1節から10節に書かれています。この祭司はレビ族の祭司制度が確立する以前、モーセやアロンが生きていた時代の前に存在していました。そして、アブラハムが戦利品の十分の一を彼に捧げたということが4節に書かれています。この事は何を意味するのでしょうか?レビ族は十分の一を他の部族から受取ることが律法で定められていますが、メルキゼデクはアブラハムから十分の一を受け取っているので、彼は祭司であるということが分かります。さらに、彼は神に祝福されたアブラハムを祝福しているので、アブラハムより上の存在であるということがこれでわかります。さらに、アブラハムが戦利品の十分の一をメルキゼデクに納めたということはアブラハムの子孫であるレビもまた十分の一をメルキゼデクに納めたということになり、メルキゼデクはレビより上位の祭司であるということが言えます。
この手紙の著者は祭司メルキゼデクを登場させました。そして、この祭司を「父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。」と3節で呼んでおり、主イエスのひな形としています。もちろん、主イエスには人としての系図はあり、父ヨセフと母マリアはいました。しかし、主イエスは聖霊によって母マリアに宿り、この世に来られました。そして、神の子なのです。
律法と世襲によって立てられたレビ族の祭司ではなく、祭司メルキゼデクをひな形とした主イエスが祭司として立てられたということはどういうことでしょうか?それはこの手紙の著者が18節と19節で言っているように、「以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。律法が何一つ完全なものにしなかったからです。しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。」という事です。
この希望こそが主イエス・キリストです。彼こそが「朽ちることのない命の力によって立てられた」祭司なのです。この希望である、命の力によって立てられた祭司を通して私たちは罪を贖われ、神に近づくことが出来るのです。もし、未だに律法と世襲によって立てられたレビの祭司によって罪の贖いの儀式が行われていたとしたらどうでしょうか?多分、異邦人である私たちは罪をゆるされていなかったでしょう。さらに言うならば、この律法すら完全なものではなく、弱く、無益なものであったということはイスラエルの民ですら、罪を赦されることはかなわなかったということになります。私たちは律法によらず、世襲によらず、人種によらず、主イエス・キリストによる信仰と神からの恵みによって救われました。主イエスはレビの祭司の様に毎年自分の罪のため、そして民の罪のために犠牲を献げるのではなく、ご自身は罪を犯しませんでしたが、民のため、民の罪の贖いのためにただ一度ご自身を犠牲にささげました。主イエスは復活し、永遠に祭司メルキゼデクのように御自分を信じる民のためにとりなしをしてくださっています。この主を信じつつ、歩んで行こうではありませんか。
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