「油を注がれた主」
2024年3月10日 受難節第4主日
説教題:「油を注がれた主」
聖書 : ヨハネによる福音書 12章1節-8節(191㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
過越祭の六日前に、主イエスはベタニアに行かれたとあります。もう何度か申し上げているように過越祭という祭りはユダヤ教にとって重要なお祭りです。これは旧約聖書の出エジプト記での出来事に基づいたものです。なかなかイスラエルの民を出て行かせないエジプトの王に罰を与えるためにエジプトの王の長男はもとよりすべてのエジプトの民、奴隷の長男、そして動物の長子に至るまで殺してしまうということでした。しかしイスラエルの民の長男は殺されなかった、すなわち過ぎ越されたので、その事をイスラエルの民はお祝いしなければならないと主は彼らに命じられました。それが過越祭で多くの人々は首都エルサレムに上っていったのです。主イエスはエルサレムに行くときにはよくその近郊のベタニアに立ち寄ったので今回も弟子達と共にそこへ立ち寄ったということでしょう。
また1節には「そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。」と書かれており、2節には「マルタは給仕をしていた」と書かれており、3節には「マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持ってきて、」と書かれています。
ラザロ、マルタ、マリアという人物達が登場しますが、彼らは弟と姉と妹です。主イエスと彼らは親しい交わりがありました。ですのでベタニアが単にエルサレム近郊にあるから立ち寄ったのではなく、今回も主イエスは彼らと親交を温めるためにベタニアに寄ったのだと考えられます。主イエスと彼らとの関わりはルカによる福音書10章38節から42節とヨハネによる福音書11章1節から44節に書かれています。ルカによる福音書ではマルタという女が主イエスを迎え入れるのですが、彼女だけ立ち働いていて妹のマリアが主イエスの話をじっと聞いていたのですが、その事が気に入らないので、姉のマルタが主イエスに妹も自分の手伝いをしてくれるよう言ってほしいとお願いします。しかし主イエスの答えはマリアが主イエスが話されるのを聞くことを奪ってはならないというものでした。
ヨハネによる福音書11章1節から44節、本日の聖書箇所の前の章なのですが、ベタニアの姉妹マリアの兄弟ラザロが病気で、彼女たちは主イエスの元へ人をやって来ていただき癒やしていただけるよう頼みます。ですがなぜか主イエスはすぐに出発しようとしませんでした。結局ラザロは亡くなるのですが、その後に主イエスは彼女たちの家に到着します。そして主イエスは非難を浴びるのですが、死んだラザロを生き返らせます。このように主イエスとラザロ達とは親交があったということです。
さて本日の聖書箇所に戻りますと、「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」(ヨハネによる福音書12章3節)
ここに出てくるナルドとはおみなえし科の宿根草です。現物は今日でもヒマラヤ山中の村々で栽培されていてナルドの乾燥品は、甘松香として輸入されているそうです。この香油の香りは強いということです。そしてこの香油 には混じり物、つまり他の不純物を混ぜたものもあるそうです。今日の聖書箇所に出てくる香油は「純粋で非常に高価な」と書かれているのでそういうことはないと思いますが。それを一リトラ(約326グラム)持ってきて主イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐったということでした。高価な香油を使い、しかも自分の髪で香油のかかった足をぬぐうというある意味屈辱的な事をマリアはしました。見ている周りの人間もびっくりしたでしょう。
事実、怒りを覚えた人間もいました。イスカリオテのユダです。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
(5節)
成人が一日働いて稼げるお金が一デナリオンであったと言われています。ですから三百日間分のお金をマリアは使ってしまったということです。彼女達はそんなに裕福ではなかったと思われます。彼女たちが住んでいた場所は ベタニアです。ベタニアは「貧しい家」「苦悩の家」という意味であるとも言います。またここで重い皮膚病に侵されたシモンの家で主イエスとその一行が食事を取っていたということも書かれています。(マルコによる福音書14章3節)今回この出来事が起こったのもこのシモンの家と言われています。
何が言いたいかというとこのベタニアという場所はその当時社会から疎外されていた人々が住んでいた場所であったようです。そしてそこに住んでいる人々にとって300デナリオンもする香油というのはとても貴重であるということです。その貴重な香油をマリアは主のために使ったということです。
一見すると5節でユダが言っていることが正しく思えます。しかし、聖書は6節ではっきりとユダの意見が本当に貧しい人々のことを思って言っているのではないと説明しています。
マリアがなぜこのようなことをしたのかは様々な意見があります。例えば、自分の兄弟のラザロを復活させていただいたその御礼にこのようなことをしたという意見もあります。
ですが7節で主イエスが仰ったように「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」ということが正しいと思うのです。どういうことかと言いますと、葬りのために死体の足に香油を塗るという行為はよく行われていたということです。もちろん、まだ主イエスは亡くなっておりませんので、マリアは先走っていると言わざるをえません。しかし、主イエスは何度か弟子達に御自分が逮捕され、殺されることを述べています。彼らはその事を不安には思っていましたが、本気で信じてはいなかったようです。マリアは弟子達が信じていなかったその事を信じていたのかもしれません。だからこそ、このような行為をしたのだと思います。
もう一つの理由としてはこれはマリアなりの礼拝であったのだと思います。先程も言いましたように、このナルドの香油は彼女にとってはものすごい高額なものです。それをほんの一部ではなくすべて注いだのです。それはあのルカによる福音書21章1節から4節に出てくる貧しいやもめが生活費全部のレプトン銅貨二枚を献金するのに等しい行為だと思います。また彼女は自分の髪で主イエスの足を拭いました。つまり自分の身を低くしたのです。そして「家は香油の香りでいっぱいになった。」と書かれています。それは彼女の主イエスへの愛で家中がいっぱいになったということです。さらに主イエスの福音がこれから世界に広がっていくということも意味します。
この聖書箇所ではこのようなマリアの行為と裏切り者ユダの偽善の行為が書かれています。もちろん、私達が何も全財産を献金しなさいといっているわけではありません。ですが、私達はマリアのこの全部を捧げる心持ちを持ちたいと思います。
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