top of page

「洗礼者ヨハネによる主イエスへの問い」

2023年7月9日 聖霊降臨節第7主日

説教題:「洗礼者ヨハネによる主イエスへの問い」

聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 7章18節-23節(115㌻)​

説教者:伊豆 聖牧師


 自分は何者であるか、相手が何者であるかということは私達が生活していく上で重要な事です。なぜなら、その事によって自分が果たす役割、相手が果たす役割が決まってきます。私であれば、牧師ですので、説教の準備を含めた礼拝の準備、祈祷会の準備、役員会の準備等することが決まっていて、それらをすることを期待されています。

教会員の方もまた礼拝のための様々な事をすることを期待されています。駅員さん、バスやタクシーの運転手さん、医者さん、会社の社長さん、国会議員さん等、その例を挙げていけば、きりがありません。

ですが、何者であるのかわからないというのは人々を不安にさせます。


 例えば、ご近所に新たに引っ越してきた人がいたとします。その人が何者であるのかわからない。どんな仕事をしているのかわからない。もし、その人にご家族例えば奥さんや子供さんがいらっしゃれば、その奥さんや子供さんを通じて近所付き合いが始まり、近所の人々のその人への不安感というものもある程度はなくなると思います。しかし、もしその人に奥さんや子供さんがおらず、何者であるのか、どんな仕事をしているのかもわからず、近所付き合いもあまりないとすると、周りの人達は不安になると思います。そして何かのきっかけでトラブルになることもありえます。ですので、引っ越してきた時のあいさつ回り、近所付き合いというものは大切です。この事を話す時、私はいつもこの教会に遣わされた最初の日を思い出します。私と皆さんが最初にお会いした日です。そしてその日、教会員の方と一緒に引っ越しのあいさつ回りをいたしました。いまでもその日、その時の事を憶えております。

 さて、主イエスが何者であるのかということはこの地上で伝道をなされていた時に人々の間で議論されていました。もちろん、肉的には主イエスは大工のヨセフとマリアの息子であって、兄弟もいました。

そして主イエスを幼い時から知っている人々もいました。

しかし、主イエスが御言葉と御業によって伝道を始められてから、ただ単にヨセフとマリアの息子ではないということが人々の間でわかってきたのです。主イエスは確かに力強い御言葉と御業によって伝道をされているし、神から来られている方であろうことはわかるが、何者であるかわからない。もちろん、このように考えない人々例えば、ファリサイ派の人々、律法学者達はいましたが、この何者であるかわからないというのは人々を不安にさせたと考えます。


 本日の聖書箇所は「あなたは何者であるか?」という問いに関わることです。

ルカによる福音書7章18節から20節に書かれているのですが、洗礼者ヨハネが彼の二人の弟子達を呼び、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と主イエスにお聞きになるよう彼のもとへ派遣したということです。洗礼者ヨハネがなぜ彼自身でその事を聞きに行かなかったかというと、その時、彼は牢屋にいたからです。ヘロデが彼の兄弟のフィリポの妻へロディアを娶ったことに対してヨハネが批判し、その事でヘロデがヨハネを牢に入れたからです。

 さて、洗礼者ヨハネが彼の二人の弟子達を主イエスのもとに派遣した所に戻るのですが、なぜ洗礼者ヨハネが彼らを派遣したのでしょうか?

まず、本日の聖書箇所の最初の18節を見てみましょう。

「ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、」とあります。

18節でいうところの「これらのこと」とは何でしょうか?

当然ですが、18節以前に書かれたことだと想定されます。そして主イエスが行われた御業(奇跡)だと思われるのです。

ルカによる福音書5章12節から26節、6章6節から11節、17節から19節、7章1節から17節です。

つまり、洗礼者ヨハネは主イエスが行われたこれらの御業を弟子達から聞いて、弟子達二人を主イエスのもとに派遣したのです。ですが、まだ洗礼者ヨハネがなぜこのような質問をするよう彼の弟子達を主イエスのもとに送ったのかがわかりません。主イエスはこの地上で御業(奇跡)をお示しになられました。当然このような奇跡を行われる人は通常の人間ではなく、神から来た者であるということは想像出来ます。ですが、洗礼者ヨハネの質問をもう一度見て下さい。

「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(19節)

つまり、洗礼者ヨハネですら、主イエスが神の御子であることに対して疑問を持っていたことになります。もちろん、洗礼者ヨハネは彼の弟子達から主イエスが行われた奇跡を聞いていました。ですが、その事とヨハネが考えていたメシアとは違っていたということではないでしょうか?ですが、マタイによる福音書3章13節から17節では洗礼者ヨハネは主イエスに洗礼を授けましたが、最初に洗礼者ヨハネはそれを思いとどまらせようとして、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と言いました。

(マタイによる福音書3章14節)

また、洗礼者ヨハネは主イエスの事を神の小羊、神の御子として証ししています。

(ヨハネによる福音書1章19節から34節、3章22節から36節)

それにも関わらず、洗礼者ヨハネが主イエスに対して疑問を持つことに私は違和感を持つのです。

ですが、それだけの確信と証をもっていたとしても、やはり洗礼者ヨハネの中にあるメシア像というものは他のユダヤ人達と同じ様にダビデの子孫であり、このローマの支配から彼らを救ってくれる者であったということ、つまり政治的なものであったということでしょうか?

 主イエスは洗礼者ヨハネの使いに対してこうお答えになられました。

「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(22節)

これらの事は旧約聖書に書かれていることです。

イザヤ書35章5節から7節、26章19節、29章18節から19節、そして61章1節です。

主イエスは洗礼者ヨハネの弟子に直接には答えていませんが、旧約聖書イザヤ書に書かれていることを行っていることをお示しになられています。

 洗礼者ヨハネは神から遣わされた者であることは疑いようのない事です。ですが、洗礼者ヨハネの主に対する理解というものは不十分であったのではないかということです。本日の聖書箇所ではないのですが、ルカによる福音書7章26節から28節で主は洗礼者ヨハネについてこのように語っています。「では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」


 また主イエスは弟子に対してこの様にも言っています。「はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

(マタイによる福音書13章17節)

だからこそ、主イエスの弟子達は昔の預言者や洗礼者ヨハネよりも恵まれているということなのです。なぜなら、聖書全体が救い主であることを示している主イエスが彼らを指導されていたからです。そしてペトロは証をしました。「あなたはメシア、生ける神の子です。」

(マタイによる福音書16章16節)

そして私達もまた昔の預言者、洗礼者ヨハネより恵まれているのです。

なぜなら、私達は主イエスがメシアであり、何よりも十字架にお掛かりになって私達の罪をあがなっていただき、復活された方であることを知っているからです。主イエスが何者であるかということを知っているからです。それと同時に私達は主イエスによって救われた者であり、主イエスに倣う者、キリスト者であることを知っているからです。

コメント


Recent Posts
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Classic
  • Twitter Classic
bottom of page