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「父の家」

2025年1月5日 降誕節第2主日

説教題:「父の家」

聖書 : ルカによる福音書 2章41-51節(104㌻)​​​​​

説教者:伊豆 聖牧師


 年末年始はゆっくりと家で過ごされたでしょうか?私も帰省しゆっくり過ごすことが出来て感謝しております。


 さて前回は主イエスがヘロデ王によって殺されるという危機的な状況にあったという話をしました。ですが主の天使がそのことを知らせエジプトに逃れ、危機が去るまでそこにとどまるよう父ヨセフに夢で知らせました。そして彼ら家族はエジプトに脱出し難を逃れ、ナザレの町に戻ってきたということです。

その後主イエスは成長し12歳になりました。

 家族はユダヤの慣習として過越祭のために故郷ナザレからエルサレムに毎年上っていました。そして今回主イエスが12歳になった時も家族は上っていったのですが、帰り道に主イエスがいないことに気づくのです。主イエスが道連れの中にいるものと思い帰っていたのですが見つからず親類や知人の間を捜しまわりました。そしてエルサレムに引き返し、ようやく主イエスを見つけます。

 迷子になるということは現在でもよくあることです。今でも家族連れで海や山、そしてテーマパークなんかではよく迷子のお知らせを耳にします。スーパーなんかでもよく耳にしますね。ですので昔も今も変わらないんだなと思ってしまいます。ですが昔は今ほど便利ではありませんでした。アナウンスなんていう便利なものはなかったですし、治安だって今ほど良くはなかったことでしょう。そんな中で両親が息子を発見したのは見失ってから3日も経ってからでした。

 彼らの心配はいかばかりであったことでしょう。それはこれまでの主イエスのご誕生の経緯を見てみてもおわかりかと思います。天使による主イエスのご誕生のお告げがありました。羊飼いたちや東方の博士たちから知らせもありました。そしてヘロデ王による主イエスの殺害の企みもありました。

まだ少年にもかかわらずもうすでに激動の人生を主イエスは歩まれてきたわけです。両親はそれを目の当たりにしてきたわけです。ですから何か特別なことそれが善であれ、悪であれ起こったかもしれないと考えたと思います。ですから主イエスが迷子になられた時も最悪の事も考えられたかもしれません。

 ですが彼らが主イエスをエルサレムで発見した時にはそのような危機的な状況にはいませんでした。

主イエスは神殿の境内で学者たちと話をしていたということです。わずか12歳の主イエスが学者たちと話を聞き、質問をしていたということです。「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。」と47節にありますように、主イエスの御子としての片鱗をもうすでにここで表されていたということです。両親もまたその事に驚いていましたが、母マリアの発言は息子を叱るものでした。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」と48節にあります。ごくごく普通の一般的な親の反応です。私達がよくレジャー施設の迷子センターで迷子の親が迎えにきた時に彼らが言う言葉です。もっとも子供を迷子にしてしまった、そしてその事に気づかない彼らにも責任があると思いますので子供を一方的に責めるのはいかがかと思うのですが。そして大抵の迷子は泣いているか怒っているかしています。

 ですが主イエスはそのような大抵の子供ではなかったのです。3日間も両親と離れ離れであるにもかかわらず、神殿の境内で学者たち相手に堂々と討論をすること自体普通ではありません。ですが注目するのは次の主イエスの言葉です。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と49節にあります。普通の親ならば怒ってしまうような場面ですね。こっちは一生懸命捜していたのに捜されている本人は我感せずというか、こっちの気持ちをくみもせず、さかなでするような態度なのですから。主イエスの両親は怒りはしなかったとは思いますが、主イエスの言葉を理解は出来なかったということです。50節に書かれています。

 ですが大切なことは母マリアの態度です。「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」と51節に書かれています。つまり母マリアはイエスの言葉を理解出来なかったが、それを受け入れたということです。しばしば私達は主の御心や御言葉がわからないことがあります。ですがそういう状態であっても受け入れるということが主の御心にかなうことであります。それはマリアのこれまでの態度を見てみればわかるかと思います。主イエスの誕生を天使ガブリエルが母マリアに告げた場面がありました。ルカによる福音書1章38節です。     

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」            また羊飼いたちがヨセフとマリアと主イエスの所に来て、天使が話してくれたことを聞いた時、皆は不思議に思ったと書かれています。ルカによる福音書2章18節です。不思議に思ったということは理解出来なかったということです。ですが次の19節にはこのように書かれています。「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」   

51節と同じです。ですから受け入れる姿勢が大切です。

 さて前後しますが49節の主イエスの御言葉です。確かに一般的にみれば非難されるかもしれませんが、そうではありません。主イエスにとって神殿とは父なる神の家、父の家です。ですからこのように答えられたのです。父の家は故郷であり、実家です。そこには安心感があります。先ほど申し上げたように私達は年末年始家でゆっくり過ごしましたね。そのような安心感です。いや主イエスにとって神殿はそれ以上の安心感なのです。なぜならそこでは父なる神の臨在を感じていたからです。神から引き離されることほど辛いことはありません。

モーセは主に「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。」と頼みました。(出エジプト33章15節)モーセはこれほど主が共におられることを主に求めたのです。                  

ダビデもまた主の臨在を求めています。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。」(詩篇27章4節)   

そして主イエスが十字架にお掛かりになる時、父なる神に見捨てられたと思い、このような悲痛な祈りをされました。    

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」  

(マタイによる福音書27章46節)                

ですが父なる神は主イエスを生き返らせました。そして私達の罪が赦されたのです。ですから主のご臨在がどれほど私達に安心感を与え大切なものであるかおわかりかと思います。  

私達が主のご臨在を感じられるよう聖霊に祈りたいと思います。

 

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