「王の帰還と犠牲」
2020年4月5日 第1主日礼拝説教 棕櫚の主日礼拝
説教題 「王の帰還と犠牲」
聖書 新約聖書 ヨハネによる福音書第12章12~19節(192㌻)、19章14~19節(207㌻) 説教者 伊豆聖牧師
「王の帰還と犠牲」 皆さん、おはようございます。そして、始めまして。本日は受難節第6主日です。主の受難をおぼえます。4月1日にこちらに引っ越してきた時に何人かの方々とはお会いしたのですが、浦和教会に派遣されました伊豆 聖ともうします。3月8日、約1ヶ月前に卒業してこちらに赴任いたしました。よろしくおねがいします。 私はなにかこの浦和教会に繋がりがあるのではないかと考えております。東京都目黒にある神学校の寮に入る前に私は千葉県柏市ひばりが丘という所に住んでおりました。その近くにJリーグの柏レイソルズというプロサッカーチームがあります。チームカラーは黄色です。浦和教会からしばらく歩くとJR浦和駅があるのですが、そこにはJリーグの浦和レッズを応援する広告があります。チームカラーは赤色です。いわば、黄色組から赤色組に移ったということですね。さらに、こちらの教会を建てられた建設会社がペテロ建設だということを母に言ったのですが、母は驚いておりました。私の父は初代青葉台教会の牧師であり、母は牧師夫人でありました。そして母は最初の青葉台教会はペテロ建設が建てたこと、そして、当時のペテロ建設の方が今でも母に手紙を毎年書かれていることを私に伝えました。これらの事をただの偶然と考えることもできるかと思いますが、私は神様の確かな導きを感じております。 では、御言葉に入っていきます。本日の第一の聖書箇所である12:12から19は主イェスが大勢の人々に歓呼され、エルサレムへ入城する場面です。なぜ、大勢の人々は主イェスをこのように盛大にむかえいれたのでしょうか。主イェスは大工ヨセフを父に、マリアを母に生まれました。しかし、実際、聖霊によって生まれ、伝道をはじめました。山上の説教を始めとする彼の数々の教え、そして病人をいやす、悪霊を追い出すといった奇跡は多くの人々を魅了しました。 主イェスの教えはそれまでのユダヤ教のラビ達、特にパリサイ人や律法学者たちが教える律法の解釈の教えとは違い、より直接的で、ともすればより過激で、権威のある教えだったからです。主イェスの有名な山上の説教があります。マタイ5章3節「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」から始まるのですが、終わりはこうあります。マタイ7章28節〜29節「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威のある者としてお教えになったからである。」 主イェスの奇跡はどうであったでしょう。イェスは病気の人間をいやす、悪霊を追い出す、湖の上を歩く、水をワインに変える、5つのパンと二匹の魚で5千人を養うなどをなさいました。それらは確かに人々を魅了したことでしょう。なぜなら、人々はそれまでそのようなことを見たことも聞いたこともなかったのですから。安息日にイェスに目をいやされた目の不自由な方がおりました。目をいやされたことは良かったのですが、その日が安息日(つまり働いてはいけない日)でした。そしてイェスが目をいやしたことは労働にあたり、彼は安息日を破り、罪を犯しているとパリサイ人達は主張します。そして、パリサイ人達はこの目をいやされた男を詰問するのですが、この男はこう言います。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとからこられたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」 (ヨハネによる福音書9:32〜33) 主イェスのさらなる奇跡としてはラザロの復活があります。ヨハネによる福音書11章にその事は書かれているのですが、主イェスの知人にマリアとマルタという姉妹がおり、彼女たちの兄弟にラザロという人がいました。その人が病気になり、亡くなられたのですが、主イェスがそのラザロを復活させた。誰も見たことも聞いたこともないことが起こったのです。 そのことは大衆を魅了しました。ヨハネによる福音書12章9節「イェスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやってきた。それはイェスだけが目当てではなく、イェスが死者の中からよみがえられたラザロを見るためでもあった。」とあります。 それまで見たことも聞いたこともない権威ある教えと奇跡の積み重ねによって、主イェスは人々の歓呼のなかエルサレムに迎えられた。「祭りにきていた人々はなつめやしの木の枝をもって主を迎え入れ、叫び続ける。ホサナ(祝福あれ、)主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」 (ヨハネによる福音書12:13) 主イェスはイスラエルの王として、ユダヤ人の王として迎え入れられた。しかし、この王は私達が考えている王とは違っています。へりくだっているということです。14節〜15節にかかれているのですが、主イェスはろばの子にお乗りになり、エルサレムに入場された。ろばの子。およそ王が乗る乗り物としてはふさわしいとはとても考えられない動物です。想像してみてください。王冠をかぶり、マントをはおり、子ロバにまたがる王様の姿を。こっけいですらあります。しかし、主イェスはそれをなさった。それは主イェスが王であるが、この世の王とは異なった価値観を持っていたからだと思います。へりくだりです。神は高ぶるものを低められ、低いものを高くします。主イェスはご自身の行動でその事を示されているのではないでしょうか。このロバに乗ること以外に随所にへりくだりの大切さを主イェスは示しています。このようにして、主イェスはご自分の民であるユダヤ人のもとへ王として帰還しました。ユダヤ人達はローマ帝国によって支配され、いつかダビデ王の子孫であるユダヤ人の王、メシアが現れ、彼らを開放すると信じていたから、主イェスを歓呼して受け入れました。しかし、この事はこれまでユダヤ社会で高い地位を得ていた律法学者、パリサイ人を苛立たせました。恐怖を感じたといってもいいかもしれません。自分たちの民が離れて、主イェスにつく。殺そうと思ったに違いありません。 本日の第2の聖書箇所のヨハネによる福音書19:14〜19です。ここでは、すでにイェスが捕らえられ大祭司とピラトに尋問された後、民衆がピラトにイェスを十字架刑で処刑するよう要求し、イェスが十字架に掛けられる場面です。民衆はつい数日前、大勢で、歓呼してイェスをエルサレムに迎え入れました。 「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」と言っていた民衆が一変して、「十字架につけろ」と言い放ちます。ユダヤ人の王という称号はイェスをほめたたえる名前ではなく、あざ笑う名前となり、彼の罪状となりました。 ヨハネによる福音書19章2節〜3節にはこうあります。「兵士たちは茨で冠を編んでイェスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った」 19節には「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには「ナザレのイェス、ユダヤ人の王」と書いてあった。」 民衆のなんという変わりようでしょうか。しかし、私達もまた同じかもしれません。私達は様々な物事の変化、それが良きにしろ、悪きにしろ、一喜一憂します。動揺します。この新型コロナウィルスの事もそうだと思います。今、世界は、日本はこの影響で大変な状態におちいっております。そして、教会もまた試練をむかえております。ある教会は礼拝を含む活動をやめました。また別の教会はインターネットによる礼拝をしております。現実にこのように対処することは必要だと思うのですが、我を忘れてしまいますとこの民衆のようになってしまうのではないのでしょうか。なぜなら、私達は、いや私達の心は風に吹かれる あしのようにたえず揺れ動いているからです。私達は弱いのです。 ユダヤ人の王である主イェスは我々が考える王とは違い、ろばの子に乗ってエルサレムに入場するような、へりくだる王でありました。それだけでなく、この王は十字架に掛けられ、死んで、私達の罪のあがないをしました。王が犠牲になったのです。王が民のために犠牲になる。民や部下が王のために犠牲になるという話はよく聞きますが、逆はあまり聞きません。このへりくだり、民のために犠牲になる所に神の強さがあります。私達はこのイェスにより頼むことによって生きることができるのです。希望を持って生きていこうではありませんか。 最後にヨハネによる福音書1章11節〜14節を読んで終えたいと思います。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
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