「生命の水」
2021年6月27日 聖霊降臨節第6主日礼拝 説教題:「生命の水」 聖書 : 旧約聖書 出エジプト記 17章1−7節 (122㌻) 新約聖書 ヨハネによる福音書4 章13-15節(169㌻) 説教者:伊豆 聖牧師
食べ物と飲み物は私達が生きていくために必要不可欠なものです。この二つをめぐって人々や国々は争ってきました。エジプトで奴隷状態であったイスラエルの人達は神が選ばれたモーセをリーダーとして神の導きによってエジプトから脱出しました。しかし、彼らは脱出後すんなりと神が彼らの先祖であるアブラハムに約束した地に入ることは出来ませんでした。その理由は彼らが度々神を試し、神に逆らい、そして神を怒らせたからです。結果として彼らは40年間、荒れ野をさすらい続け、死に絶え、彼らの子供と神に従い続けたヨシュアとカレブだけが神の約束された地に入ることを許されました。
神を試し、神に逆らい、そして神を怒らせた原因は様々でしたが、その中には飲み物、水に関することがありました。本日の聖書箇所の出エジプト記17章1節から2節にはこう書かれています。「主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程(りょてい)に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。民がモーセと争い、『我々に飲み水を与えよ』と言うと、モーセは、言った。『なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。』」
ここで分かることはエジプトを脱出した後、イスラエルの人々が歩んだ道程(みちのり)は神がお決めになったことであるということ、そして 神はここでイスラエルの人々を試したということです。神がお決めになったということは1節の「主の命令により、」という言葉や「旅程(りょてい)に従って進み」という言葉から想像できます。また、神が イスラエルの人々を試したという事は「そこには民の飲み水がなかった。」という文から想像できます。イスラエルの民を導く場所に飲み水がない事を神が予め知らないはずがないからです。知っていながら導いたということが想像できるのです。ではなぜその様な場所に民を導いたのかというとやはり民を試すためではなかったかと考えるのです。イスラエルの民はこのレフディムの前に居た荒れ野のシンで飢えを体験しました。彼らはそこで食べ物がほしいと不平を言いましたが、神はうずらを来させ、マナを天から降らせ、民を養ったのです。この時も神はこのシンという荒れ野には民の食料がないということを予め知っていたはずです。にもかかわらず、神は民をこの荒れ野に導いた。それはやはり神がこの民を試したと考えられます。神はこの民が食料や水がないという状況でも神を信頼するかということを試したのだと考えられるのです。この神のイスラエルの民に対する試みを「意地悪だ」、「理不尽だ」「善なる神のすることではない」というように思われる方もいらっしゃると思います。しかし、神はイスラエルの民に食料もない状態、水もない状態で 神に頼ることを学ばせたかったのではないでしょうか。モーセは言いました。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口からであるすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練することを心に留めなさい。」(申命記8章2節から5節)
しかしこのように考えられるようになるためには人間的な視点を捨てないといけないのです。神の視点で考えなければいけないのです。そしてそれはとても難しいことなのです。特に自分にとって必要不可欠な物が欠けている時、例えばここで言えば水なのですが、そのような時、神を選ぶ事、神に信頼する事はとても難しいのです。
だからこそ、民はモーセに「我々に飲み水を与えよ」と要求したのです。人間的な視点で言えば、これは妥当な要求です。渇きは飢えと同じくらい私達の生命を脅かすものだからです。しかし、モーセは民に対して「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」と答えます。このモーセの言った事は人間的に見ればずいぶん的はずれで冷たい印象を与えます。水がなく、民は渇いて、死んでしまうかもしれないのです。それなのに「どうしてそんなひどい事をモーセは言うのだ。」と民が怒るのは当然なのです。実際、民はモーセにこう言いました。
「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」本日の聖書箇所の3節に書かれているのですが、ずいぶん厳しい口調で民はモーセを責め立てました。そして、モーセは民に殺されるという危機感を持ちました。彼は主にこのように叫びました。「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています。」4節です。ここで出てくるのは人の視点と神の視点の違いなのです。民は 自分たちが渇きで死にそうになっているので水を与えるのは当然ではないかという人間の視点を持っていました。しかし、この民の要求に対してモーセは「自分に対して争いを仕掛けている。」「神を試している」と言い、更に「民は自分を殺そうとまでしている」と神に訴えた。つまり、民の要求は罪であるというのが神の視点であり、モーセはこの神の視点を持っていたのです。長老たちを伴い、民の前を進み、ホレブの岩をエジプトのナイル川を打った杖で打つよう神はモーセに命じました。そして、その岩から水が出て、民は水を飲むことができると神はモーセに告げ、モーセは神に命じられて通り行いました。
神は民を渇きによる死から奇跡によってお救いになりました。もちろん、民は喜んだことでしょう。なぜなら、渇きによる死から免れることが出来たわけですから。もしかすると、民は神に対してそしてモーセに対して不平・不満がまだ残っていたかもしれません。「なんで私達をこんな水もないような所に連れて行って、ひどい目に遭わせるのか」という不平・不満です。これは私達キリスト者でも思ってしまうのです。これだけ神様に従っているのにこんな目に遭うなんてひどいじゃないかということです。しかし、神からすれば、民は罪を犯したのです。そして神の試しに失敗したのです。7節にこう書かれています。「彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうかと言って、モーセと争い、主を試したからである。』」
キリスト者であっても、なくても苦難は経験します。そしてキリスト者ゆえの苦難もあり、そして神からの試みもあるのです。そのような中でキリスト者として生きていくためには人間の視点ではなく、神の視点を持つことです。そのためには御言葉を学ぶことそしてその御言葉が私達の生活の中で生きて働かなくてはいけません。御言葉が私達の生活の中で生きて働くためには聖霊に働いていただかなければならないのです。そして主イエスが私達と共にあって働いていただくのです。モーセがホレブの岩を打った時、水が出て民は水を飲み渇きから開放され、死から逃れました。
しかし、この水より 遥かに尊い水があります。それが主イエス・キリストです。主イエスは神に御子にもかかわらず、40日間荒れ野で悪魔の試みに遭われ、これに打ち勝ちました。主イエスが悪魔に「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイによる福音書4章3節)と言われたときでも、これを拒みました。そして私が先程申し上げたモーセがイスラエルの民に 遺言として言った言葉、申命記の言葉「人はパンだけで生きるものではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」(マタイによる福音書4章4節)主イエスは引用しました。
そして、神の口から出る一つ一つの言葉とは主イエスが発した一つ一つの言葉、御言葉でもあります。本日の第二の聖書箇所で主イエスはサマリアの女にこう言いました。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書4章14節)主イエスが私達の罪の贖いために十字架にお掛かりになり、死んでくださり、そして復活されました。主イエスは私達にとって生命であり、御言葉は生命の水です。私達はこの生命の水である御言葉を自分の物として歩んでいこうではありませんか。
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