「生活の刷新」
2021年7月11日 聖霊降臨節第8主日礼拝
説教題:「生活の刷新」
聖書 : 新約聖書 使徒言行録 19章11−20節 (251㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
主イエス・キリストは言葉と業によって福音を述べ伝えました。言葉とは教えであり、今でいうところの説教です。業とは病気を癒やしたり、悪霊を追い出したりという奇跡のことです。主イエスがこの地上で人々に福音を宣べ伝えるためには言葉と業の両方が必要だったのです。もし主イエスが言葉のみ伝え、業を行なったとしたら、人々はあれほど主イエスを受け入れたでしょうか?事実、主イェスに反対したファリサイ派、サドカイ派、律法学者たちは彼に反対しながらも主イエスが行われた業は認めていましたし、主イエスの業によって民衆が主イエスを受け入れたことを恐れてもいました。主イエスが行われた業は確かに素晴らしい物もので、彼の御言葉の証をする力でした。しかし、業だけに意識を向けてしまうと私達は罪に捕らわれてしまう可能性があります。
使徒パウロは人々に福音を伝えるために神が選ばれた器でした。使徒言行録に書かれた彼の活動や彼が書かれた手紙を読みますと、彼がいかに言葉の人であったかがわかります。しかし、パウロは言葉の人だけでなく業の人でもありました。本日の聖書箇所にはそのことが書かれています。
「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身につけていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出ていくほどであった。」と11節から12節に書かれています。「彼が身に付けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出ていくほどであった。」という事は私個人としては安直だなとは思います。しかし、神が使徒パウロを通じて奇跡を行ったということは 確かです。
しかし、次の13節から16節にはこのパウロの奇跡とは間逆な事が書かれています。ユダヤ人の祈祷師の中で、悪霊に憑かれている人々に、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言って悪霊をはらおうとする輩がいたということです。ユダヤ人の祭司長スケワという者の7人の息子たちも、そのような事をしていたということです。ですが、悪霊に取りつかれた男は彼らの飛びかかり、ひどい目に遭わせました。
彼らとパウロはどこが違っていたのでしょうか?パウロは神に選ばれていましたし、当然神から奇跡を行うことが出来る権威を授かっていました。しかし、彼らはどうだったでしょうか?まず、初めに彼らは祈祷師です。言ってみれば、まじない師、魔術師です。旧約聖書の時代からまじない師、魔術師は偶像礼拝と同じく主なる神に忌み嫌われる存在でした。彼らはイスラエルの民を惑わし悪を行わせ、主なる神から彼らを離れさせたからです。レビ記20章6節にはこう書かれています。「口寄せや霊媒を訪れて、これを求めて淫行を行う者があれば、わたしはその者にわたしの顔を向け、彼を民の中から断つ。」さらに、同じレビ記20章27節には「男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らは石で打ち殺せ。彼らの行為は死罪に当たる。」とも書かれています。神に激しい言葉でもって非難されましたが、祈祷師とはこのような類の人たちでした。このような者たちが聖なる神の御子である主イエスと使徒パウロの名を使い、悪霊を追い出そうとするなど神にとっては言語道断なことであったであろうと思います。そしてような輩に神が奇跡の力をお与えになるわけがなかったのです。ですから彼らは悪霊を払うことができなかったのです。
さらに言うならば、祈祷師達が主イエスの御名やパウロの名前を 使って悪霊を追い出そうとした理由は何だったのでしょうか?主イエスの御名をほめたたえることだったでしょうか?父なる神を崇めることだったでしょうか?福音を人々に宣ベ伝え、人々を神の元に立ち返らせることであったしょうか?そうではありません。彼ら自身が名声を得たかったからであったのでしょう。人々の前で悪霊を追い出すことが出来れば、彼らの名声を得ることが出来ると思ったのかもしれません。彼らは祈祷師なので、まじないによって生活をしていました。ですので、彼らが名声を得れば、収入も増えると思ったかもしれません。いずれにしても、これらは彼らの欲です。そして罪でもあります。彼らは自分たちの欲と罪のために主イエスの御名と使徒パウロの名前を利用したのです。そのような人々が神に喜ばれるはずがないのです。そのような人々は主イエスに属していないのです。結果として彼らは悪霊にとりつかれた男にひどい目に遭わされました。この取りつかれた男が彼らに言った言葉は15節にあります。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」彼の言葉がすべてを物語っています。主イエスに属していれば、彼らは悪霊をはらうこともできたでしょう。しかし、彼らは主イエスに属していなかった。何の関係もなかったのです。なぜ、主イエスと何も関 係がなかったのでしょうか?彼らは主イエスを神の子、救い主として信じず、自分たちの利益のために主イエスを利用しようとしていただけだからです。信仰生活は主イエスを受け入れることからが始まり、聖霊によって賜物が与えられるのです。もちろんその賜物には色々あります。しかし自分の利益のために奇跡を求めるのは神の思いとはかけ離れているのではないでしょうか?それは魔術であり、神の奇跡でもなければ、聖霊による賜物でもありません。神が忌み嫌うものです。同じ使徒言行録の8章9節から24節に魔術師シモンとペトロとの話が出てきます。サマリアに魔術を行うシモンという人物がおり、信じて洗礼を受け、フィリポに従っていました。しかし、エルサレムから来たペトロとヨハネが人々の頭に手を置き、聖霊を授けるのを彼は見ました。そして彼は彼らのところにお金を持ってきて聖霊を授ける力を売ってもらえるように頼みました。しかし、ペトロはこのシモンをこのように叱りました。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」(20節から23節)
自分の利益のために主イエスとパウロの名前を利用しようとした祈祷師達もこの魔術師シモンと同じでした。同じ罪を犯していたのです。しかし、祈祷師達が悪霊にとりつかれた男にひどい目に遭わされたことは、このエフェソでのパウロの宣教に良い結果をもたらした。人々がこの事に恐れを抱き、主イエスをあがめ、彼らの悪行を告白し、魔術を行っていた人たちもその書物を捨てたからです。彼らは悔い改め、生活を刷新したのです。逆に言えば、それだけエフェソは人々の悪行と魔術に満ち溢れた都市であったこということでしょう。
さて、私達はどうでしょうか?私達は今教会に通い、こうして、神を賛美し、神の言葉を聞いています。エフェソに住んでいた人たちのように魔術などしないし、祈祷師のようなまじないなどしないと思っています。馬鹿らしいと思うかもしれません。しかし、私達が実際に魔術やまじないをするかどうかということが問題ではないのです。私達が真の神以外の物に心を捕らわれてしまい、それを頼りにすることが問題なのです。それが魔術であり、まじないなのです。その時、私達も容易にユダヤ人達の祈祷師のような罪に心を蝕まれてしまっているかもしれません。もし、そうであれば、神にその罪を取り除いていただこうではありませんか。エフェソで信仰に入った人々が悪行を告白したように、魔術を行っていた人々魔術書を焼き捨てたように、私達も私達の罪を主イエスに預けようではありませんか。主イエスは私達の罪のために十字架の上で亡くなられました。この主イエスを信じること、そこから私達の生活の刷新が始まるのです。
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