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「異邦人の救い」

2020年11月1日 降誕前第8主日礼拝 

説教題:「異邦人の救い」

聖書 : 旧約聖書 イザヤ書 56章1-8節(1153-1154㌻)    

説教者:伊豆 聖牧師


私がこの埼玉県の浦和に来てから、7ヶ月が経ちました。ここで生活して気づいたことなのですが、外国の方々が多くいらっしゃるという印象を受けました。浦和駅の前にあるパルコには国際交流センターがあり、教会の近くには日本語学校があります。私が買物などで外出する時などそこの生徒さんらしい方々をお見かけします。この前は外国人と日本人の夫妻が礼拝の時間ではなかったのですが、教会に見えられ、礼拝に出席したいということを言われました。その夫妻は残念ながら、礼拝に見えられなかったのですが、この浦和がますます国際化してきているということを実感しています。それと同時にこの地域に住んでいらっしゃる外国の方々がこの教会に足を運んでいただけたらと思っています。

さて、旧約聖書時代のユダ王国では外国人はユダヤ人と区別されていたようです。その事を暗示するのが本日の聖書箇所イザヤ書56章3節の前半部分「主のもとに集って来た異邦人は言うな 主は御自分の民とわたしを区別される、と。」です。当時、主を礼拝するために集まってきた外国人達が同じ主を礼拝するためにユダヤ人達から区別されていると感じ、その事を口に出していたからこそ、主はこのように預言者の口を通じて述べられたのではないでしょうか?これは旧約聖書の時代ではなく、新約聖書の時代なのですが、エルサレム神殿には異邦人とユダヤ人が別の場所で礼拝するという区別が存在していました。また、律法や慣習によってユダヤ人が異邦人と交際をしないということも新約聖書に書かれています。主イエスがサマリアの女性に「水を飲ませてください」(ヨハネ4:7)と頼んだことに対して、その女性が「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と答えた事(ヨハネ4:9)そしてペトロが異邦人の所へ行き食事をした事を非難されたという事(使徒11:1-18)でもそれがわかるかと思います。このユダヤ人の区別意識はどこから来るのでしょうか?それは私達がアブラハムの子孫であり、モーセの律法を守っているから救われていて、清い、が異邦人はアブラハムの子孫でもなく、モーセの律法を守っていないので汚れているという意識です。

彼らがアブラハムの子孫であるという自負心を持っているということはヨハネによる福音書8章33節、39節に書かれています。また彼らのモーセの律法を遵守することへのこだわりは以前、私がお話した、異邦人のキリスト者に割礼を受けさせようとしたファリサイ派から入ったキリスト者たちとパウロの対立で皆さんにもおわかりかと思います。

このような区別意識が預言者イザヤの時代に生きたユダヤ人達にもあったのではないでしょうか。しかし、主なる神はこれに対して異邦人に約束します。イザヤ書56章6節から7節です。「また、主のもとに集ってきた異邦人が主に仕え、主の名を愛し、その僕となり安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」

「安息日を守り、それを汚すことなくわたしの契約を固く守るなら」という言葉がありますが、一見すると律法主義的な言葉のような気がします。しかし、その前の言葉を御覧ください。「主に仕え、主の名を愛し、」とあります。これはこの人(主のもとに集ってきた異邦人)の心の状態を表していると思います。つまり、信仰心です。その人の信仰が主の安息日を守り、主との契約を守るという形になった。すなわち、信仰の実となったのです。そのような実を結ぶ人はたとえ異邦人であっても主に受け入れられるということを述べています。

主に受け入れられるのは異邦人だけではありません。宦官もまた主に受け入れられるとイザヤ書56章4節から5節で言っています。3節で主は預言者を通して宦官に「わたしは枯れ木にすぎない」と言ってはいけないと言われる。なぜ、宦官に対してそのように言われるのか?彼らの身体の一部が欠落しており、そういう者は主の集会に参加するには制限があったのです。その事はレビ記21章17節から23節にあります。彼らはまた子供を残すことが出来ませんでした。そのことで、同胞のユダヤ人達から区別されてきたのだと思われます。そのことが彼らに絶望を与え、彼らに「わたしは枯れ木にすぎない」と言わせたのかもしれません。しかし、主はそんな彼らに「とこしえの名、息子、娘を持つにまさる記念の名を」主の家に刻むと約束されました。その前提として主は安息日を守ること、主の望むことを行うこと、そして主との契約を守ることを提示されました。これは異邦人の時と同様です。新約聖書に出てくるエチオピアの宦官の話を覚えているでしょうか?使徒言行録8章26節から38節です。聖霊に導かれたフィリポが馬車に乗ってイザヤ書を読んでいたエチオピアの宦官に福音を伝え、彼はフィリポから洗礼を授けられました。彼は異邦人であり、宦官でした。

このことからもわかるように、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、宦官であれ、主の前では変わりないのです。であるからこそ、主はイザヤ書56章7節で「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」と言われ、8節で「既に集められた者に、更に加えて集めよう」と言われました。先月25日ですが、ナザレンの社会委員会主催によるセクシャルマイノリティに関しての講演を日本キリスト教団牧師の上野玲奈先生にしていただきました。オンラインによる講演でしたが、勉強になりました。もちろん、まだまだ知らないことがあるのですが。そして、このようなセクシャルマイノリティの方々を私達教会は理解し、受け入れ、共に生きていくということをしていかなければと思います。外国の方々、セクシャルマイノリティの方々そしてこの地域の方々を私達の教会は受け入れていかなければいけないと思います。なぜなら、教会はすべての民の祈りの家と呼ばれ、神は「既に集められた者に、更に加えて集めよう」と言われているからです。そして、私達もまたユダヤ人から見れば異邦人であるからです。私達はペトロが言われるように「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」からです。(1ペトロ2:10)

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