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「異邦人の救い」

2024年6月30日 聖霊降臨節第7主日 

説教題:「異邦人の救い」

聖書 : エフェソの信徒への手紙 2章11節-22節(354㌻)​​​

説教者:伊豆 聖牧師


 本日はエフェソの信徒への手紙を学びたいと思います。この手紙はパウロが紀元62年頃、ローマの獄中からエフェソの信徒へ宛てた手紙です。ですので獄中書簡と呼ばれます。獄中書簡と呼ばれるものは他に3つありまして、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙です。


 エフェソは小アジア西部の都市でアジアとヨーロッパを結ぶ重要な都市でした。パウロとこのエフェソの教会との関わりあいですが、パウロがこの教会を立ち上げたということです。その後アポロ、アクイラ、プリスキラといった人々が教会を引き継ぎ、再度パウロはこの教会を訪れ、三年間ここに滞在したということです。使徒言行録18章19節から21節にはパウロがエフェソに3ヶ月滞在したことが書かれています。またパウロはこのエフェソの教会が伝道上重要な拠点であるということがわかっていました。Iコリントの16章8節から9節で彼はこう言っています。

「しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです。」つまり福音を伝えるべき多くの人々がいて、それをサポートする人々もいるだろうが、それと同時に反対勢力も多くいるということです。このようなパウロや他の弟子たちの働きそして何よりも聖霊の働きによってエフェソの教会は発展していったということです。


 さて本日の聖書箇所に入っていきます。11節に「だから、心に留めておきなさい。」とまず書かれていますね。これは「注意深く聞きなさい、忘れないでいなさい。」ということです。人間というのは忘れやすいものです。かくいう私もそうです。少し前なのですが、目黒教会で行われたNDI(ナザレンディサイブルシップインターナショナル)に私は参加しました。その時海外から来られた方の中に私が去年通訳として参加したナザレン世界大会でお会いした方がいらっしゃいました。彼は覚えていたのですが、私は忘れていて恥ずかしい思いをしたことがあります。もちろんこれはこれで重要なことであるのですが、ここでパウロが「だから心に留めておきなさい」というのは恥ずかしい、恥ずかしくないというレベルのものではないということです。これはキリスト教の本質に関わることだということです。


 先を読んでいきましょう。「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」(エフェソの信徒への手紙2章11節から12節)


 パウロはここでいかにエフェソの信徒たちがキリストに救われる前に惨めな状況だったかを彼らに思い起こさせようとしています。もう何回かいままでの説教で説明してきたのですが、神はアブラハム、イサク、ヤコブとその子孫であるユダヤ人を選びました。神は彼らと約束と契約を結びました。彼らはその証拠として割礼を施しました。ですから異邦人は割礼のない者、神との約束と契約のない者、救いに預かることができない者、この世で希望を持って生きることができない者であったのです。本当の神を知らなかったのです。


 そして私達もまた異邦人であり、このエフェソの信徒たちと同じ様な状態だったのです。ここで少し疑問が湧いてきます。なぜパウロはこのようなある意味、エフェソの信徒をくじくような事を言ったのでしょうか?そんな人をくじくような事を言わなくても、いまキリストによって救われているのだから良いではないか?という思いが湧いてきます。


 パウロがそのような事をエフェソにいる信徒たちに伝えたのはキリストの救いの素晴らしさを伝えるためだと考えます。それが13節から述べられています。

 「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」(13節)


 主イエスが十字架で血潮を流されたことによって私達の罪が贖われ、救いに預かることができるようになったということです。

 「キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、」(14節)


 「二つのものを一つにし、」とは本来ユダヤ人しか神の救いに預かれなかったのにそれを異邦人の私達も神の救いに預かることができるようになったことを意味します。「敵意という隔ての壁」とはユダヤ人の異邦人に対する敵意の壁です。そして実際に神殿でもユダヤ人と異邦人ユダヤ教信者との間では礼拝する場所が異なりました。それは同じ神を礼拝する人々であっても区別があったということです。それはある意味「敵意という隔ての壁」ということでもあります。ですがそれをキリストは取り払われたのです。それを象徴する出来事が、主イエスが十字架で亡くなられた時に起こりました。それは神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つにさけたのです。マタイによる福音書27章51節に書かれています。

 「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」(15節)     

これは主イエスがこの地上で伝道をなさっていたときからおこなっていたことです。そして人は律法の行いによって救われるのではなく、神からの一方的な恵みによって救われるのだということを表しています。

 「双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、」

(15節)

 双方とはユダヤ人と異邦人ですが、彼らを一つの新しい人、つまり神の家族として教会として神は受け入れるということです。

 「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(16節)

 これもまたユダヤ人であれ異邦人であれ、主イエスの十字架を通じて神と和解させるということです。


 長々と話してきましたが、大切なことは一つです。キリスト・イエスにあって私達は救われたということです。そして私達は本来契約の民ではないにもかかわらずキリストにあって、神からの一方的な恵みで救われたということです。そしてキリストがかなめ石であり、使徒や預言者は土台であると20節に書かれています。これは家を喩えていますね。キリストはかなめ石ですので、動かすことはできません。また使徒や預言者たちもまた土台ですので動かすことはできません。かなめ石や土台を動かそうとすれば、家は倒壊しますね。いわゆるカルト的宗教ではこれらを動かして しまう傾向があるようですが、問題があるようです。


 私達はどうでしょうか?かなめ石や土台を動かそうとしてはいないでしょうか?私達はキリストの上に、預言者と使徒の上に立っているでしょうか?パウロが「心に留めておきなさい」と言われた事。「私たちはどうしようもない状態から確かにキリストの犠牲と神からの一方的な恵みによって救われた」という確証が私達の内にあれば、私達の内に驚くべき平和と喜びが溢れてきます。心が変えられます。言動と行動が変わります。パウロが言うように、キリストの愛の広さ、高さ、深さを理解することができます。(エフェソの信徒への手紙3章18節)そのようになれるよう日々祈っていこうではありませんか。

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