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「目に見えない戦い」


2022年6月12日 聖霊降臨節第2主日 花の日(子供の日)

説教題:「目に見えない戦い」

聖書 : 新約聖書 エフェソの信徒への手紙 6章10-20節(359㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


本日は花の日(子供の日)礼拝です。教会の講壇横に花がおかれ、式次第の花、多分バラの絵が描かれていることはお気づきだと思います。ところで皆さんはこの日の由来をご存知でしょうか?以前、私は説教で母の日礼拝の由来をお話しました。その時、母の日礼拝があるアメリカでの礼拝に由来すると申し上げましたが、本日の花の日(子供の日)礼拝もまたあるアメリカの礼拝に由来するのです。1865年、マサチューセッツ州 チェルシーで普遍主義教会(Universalist Church of America)のチャールズ・H・レナード牧師が6月のある日曜日に子供中心の礼拝にし、その中で献児式や幼児祝福式を行ったのが始まりということです。以降、アメリカで様々な会派の教会がこの時期、子供中心の礼拝を行うようになったということです。さらに、この時期は夏の花が咲き始め、花が多いということもあり、「花の日」と「子供の日」が結びつき、花の日(子供の日)礼拝となりました。 1866年にはアメリカのメソジスト教会が6月の第2日曜日を「子供の日」として教会のスケジュールに加えることを決議したということです。その日には信者たちは花を持ち寄って教会を飾り、子供たちは礼拝後に病人の見舞いのため病院を訪れるまたは警察署や様々な施設を訪ねるということです。子供たちに奉仕や感謝を学ばせるという目的です。  

 私もこのナザレンに入る前に通っていた教会で毎年、子供達と一緒に警察署、交番、消防署、老人ホーム、病院などの施設を訪問いたしました。老人ホームでは子供たちと一緒に入居者の方々の 前で賛美歌を歌いました。とても喜ばれたという記憶があります。この浦和教会は最近お子様とお父様が通ってこられています。本当に感謝です。教会に通ってこられるお子様たちが増え、このような訪問がやがて出来たらと考えている次第です。もちろん、新型コロナウィルスが収まってからということは言うまでもないことです。 さて1870年にはマサチューセッツ州ローウェルの牧師が「シャロンのバラの日」と名付け、花と子供の礼拝が捧げられたということも申し上げておきます。 

 さて本日の聖書箇所に入っていきます。この手紙の終わりの部分でパウロはエフェソの信徒たちにこの様に書き送りました。 「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」6章の10節です。キリスト者は自分の力に頼らず、主に頼ることは私達の知るところです。ですが、なぜパウロは彼らに対して「強くなりなさい。」と言ったのでしょうか?「何か彼らに対して脅威があり、戦いのようなものが存在しているのではないか?」とこの文言で推察出来るのです。当時、キリスト教徒はユダヤ教徒やローマに迫害されていたので、脅威は彼らかもしれないとも考えられます。しかし、次にパウロはこう続けます。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(11節から12節)

 「悪魔」と言うと何かオカルトじみているかもしれませんが、「この世は悪魔もしくは悪に支配されているので、この世の支配者はいわゆる悪魔の手先であり、多くの人々もまたそうであり、この世は悪そのものである。」という考え方がキリスト教には存在します。例えば、主イエスは山上の説教でこのように仰られました。

「あなたがたは地の塩であり、世の光である。」 では、なぜ主イエスはこのように仰られたのでしょうか?世が悪意に支配されているからではないでしょうか?また、ルカによる福音書22章53節には主イエスを捕らえるために押し寄せてきた祭司長、神殿守衛長、長老たちに対して主イエスが彼らに仰られたことが書かれています。「わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」注目する箇所はここの最後の部分「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」です。確かに「今はあなたたちの時で」というと主体は祭司長、神殿守衛長、長老たちであり、このような権力者達は悪なのです。ですが、話はそれだけにとどまらないのです。「闇が力を振るっている。」という箇所が重要なのです。「闇」は何でしょうか?当然、権力者たち人ではないのです。彼らの心の奥底にあったもの、主イエスを逮捕し、殺したいというどす黒い物です。マタイによる福音書23章25節から28節さらにマルコによる福音書7章20節から23節に書かれている主イエスが指摘した人の内側の汚い部分です。罪と呼ばれるものです。しかし、更に言うならば、私達の目に見えない悪魔がそうさせているのです。

 もちろん、主イエスを逮捕し、十字架につけた権力者達、それに賛同した人々は悪を行ったのですが、悪魔がそのようにさせたとも言えるわけです。もちろん、私はこれをもって彼らの罪そして私達の罪を軽くするつもりは毛頭ないのですが。そうではなく、私達の戦いは単なる表面上の戦いだけにとどまらず、目に見えない戦いがあるということです。主イエスは当然そのことを理解しておりました。ですから「闇が力を振るっている。」と仰られたのです。 ヨハネによる福音書16章33節で主イエスはこう仰られました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」ここでもまた、主イエスは弟子達に対して「自身は悪に支配された世に勝っているが、弟子達にはこの世に対して戦いによる苦難があるが、心配するな。」と言っています。

 キリスト者がこの悪に支配された世で戦うためにはどうしたら良いでしょう。まず、パウロがエフェソの信徒たちに書き送ったように「この世には戦いがあるが、それは見えざる者との戦いである」という認識を持つことだと思います。私も最近、チャレンジと申しますか、試練がありました。ですが、私はその時、2つの事を考えました。まず、一つはこの見えざる戦いです。つまり、ただ単に目の前の事柄に目を向けるのではなく、目に見えない何かに目を向けました。更に言うならばこれもまた神のご計画なのだということを考え、神に目を向けました。すると自ずと答えが出てきたのです。

 さて、パウロはこの目に見えない敵とどの様に戦えと言っているでしょうか?「神の武具を身に着け、戦いなさい。」とパウロは言っています。神の武具とは「真理、正義、平和の福音を告げる準備、盾として信仰、兜としての救い、霊の剣として神の言葉すなわち聖書、そして霊に助けられての祈り」です。さらに、パウロはエフェソの信徒たちにパウロ達自身が福音を大胆に告げられるよう祈って欲しいとまで書き送っています。私達もこれらが私達の信仰生活において、さらに言えば、この霊的な戦いにおいて必要な事であるということは分かっていると思います。ですが、なかなか私達はそのような戦いの中に入っていこうという気にならないのもまた事実であります。ですが、この比較的安全な日本においてもキリスト者にとっての葛藤や戦いが存在します。例えば、私達はキリスト者でない友人に対して積極的に自分がキリスト者であると証し、伝道をしようと考えるでしょうか?もしかしたら、変に思われるのではないか?これまでの友達との関係が終わってしまうのではないか?といった不安があると思います。もしかすると、それ以外の更に重大なチャレンジ、試練に遭われるかもしれません。その時皆さんは誰を頼りとしますか?この世の知恵でしょうか?それとも主イエスでしょうか?パウロは言っています。主イエスに頼り、目に見えない事柄に目を向け、神の武具を身に着けなさいと。私達もそのように変えてもらうよう祈ろうではありませんか?

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