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「真摯な質問」

2022年8月21日 聖霊降臨節第12主日礼拝

説教題:「真摯(しんし)な質問」

聖書 : 新約聖書 マルコによる福音書 12章28-34節(87㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 人がある質問をし、その質問に対して答えることは、その人が学習し、成長していく上で大切な事だと思います。それのみならず、その人が所属する組織、社会が成長し、何か物事を解決する上でも欠かせない事だと思います。国会中継ではほとんどと言っていいほど、各野党の国会議員の方々が政府側の大臣の方々に質問をし、大臣の方々や彼らを支える各省庁の官僚の方々がそれらの質問に答えるという場面を見受けられます。私達は彼らの質問と答えによって何が問題であるのかということや、質問をする側、される側の能力がわかるのです。そして、それによってより良い解決方法が導き出せると考えます。

 会社での会議や講演会を想像してみてください。その会議や講演会で発表される方がおりますが、最後に必ずと言っていいほど、質疑応答の時間があります。もしその時間がないとするならば、その会議や講演会はあまり良いものではないと思います。

私もオンラインで牧師会、地区協議会、そして講演会に参加してきましたし、本日も講演会に参加するのですが、必ず質疑応答の時間が取られましたし、本日も取られると思います。その質疑応答の時間の中で質問をする人、質問をされる人、そしてその質問を聞いている人々の理解力が深まる可能性があると考えます。ですので、この質疑応答というものは重要なのです。

 日本の学校での勉強方法ではこの質疑応答というものがなかったと思います。今はわからないのですし、少なくとももう何十年前の話ですが、私が日本で受けてきた教育ではなかったように思われます。つまり、先生が教え、生徒がひたすらその教えを受け入れるというものだったと思います。ですが、それではせっかくの生徒が質問をし、先生が答える、もしくは先生が質問をし、生徒が答えることによって成長する機会が失われるのではないかなと思うのです。私は日本の教育を受けた後、アメリカの大学に留学したのですが、そこでは学生が教授に質問する、もしくは教授が学生に質問するのは当然でした。そして、その質疑応答によって、質問をした学生達や周りでそれを聞いていた学生達の理解力も上がったと思うのです。それは私にとって衝撃的な光景でした。

ですから、日本の伝統的な学習方法、つまり先生が教え、生徒が受け入れるという(今はどうかわからないですが)教育を受けてきた学生たちは社会に出たときに大変だなと思うのです。


 さて、主イエス・キリストが生きておられた時代では、質疑応答の学習方法が用いられたと聞いています。ラビ(先生)と呼ばれている人々がお弟子さんたちにある質問を投げかけるわけです。そしてお弟子さんたちがその質問に答えるわけですが、当然お弟子たちは間違った答えをすることもあります。ですので、先生はその質疑応答を通じて、正しい答えに導くわけです。

主イエスご自身も弟子たちに様々な質問をしたと言う事は福音書に書かれています。

例えば主イエスは弟子達にこのようにお尋ねになられました。

「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」(ルカによる福音書9章18節)

その質問に対して彼らは「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」(ルカによる福音書9章19節)と答えました。

主イエスは更にこうお尋ねになられました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(ルカによる福音書9章20節)

ペトロが答えました。「神からのメシアです。」

このように質疑応答によって主イエスは弟子達を正しい答え、つまり真理に導いたのです。

 さて、先程、私は主イエスがこの地上で生きておられた時代にはラビ(先生)と弟子たちとの間での質疑応答による学習方法が彼らの成長を促すという話をいたしましたが、ラビと弟子たちとの間での質疑応答だけでなく、律法学者、ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々の間でも質疑応答がありました。福音書を読んでみれば、主イエスと彼らとの間の質疑応答を随所に見ることができます。私は基本的に質疑応答は良いものであると思います。と申しますのは先程から申し上げているように、国会、会社の会議や講演会などでの質疑応答を通じて質問をする側、答える側、そして周りでそれを聞いている側がより学習する、より成長する機会が与えられるからです。

しかし、良くない質疑応答や議論というものもあります。

 例えば、これは質疑応答とも言うべきものかわからないのですが、国会でのヤジ、会社のハラスメント面接、圧迫面接というものですか、もしくは最近では人を徹底的にやっつけてやろうという姿勢の議論や質問、「論破」などというものがあると思います。

このような質問というものは相手を破壊することを目的としていますし、質問をする側、質問をされる側、そして周りにいる人間を成長させるでもなんでもないと考えます。「相手をやっつけてやろう」、「相手より自分の方が知識があり、正しく、上であることを証明したい」という動機です。これはいわゆる高ぶりであり、罪だと考えます。しかし、このような事がまかり通る、推奨される、そしてもてはやされるのは悲しいことです。そして、「この世は悪であるということ」をますます私達に分からせます。

 主イエスがこの地上で生きていた時代も、このような「悪意」や「罪」に満ちた質問がなされていました。福音書には主イエスと律法学者達、ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々との質疑応答や議論でこのような悪意に満ちた、罪深い質問が主イエスに対して浴びせられたのをご存知かと思います。

 本日の聖書箇所の前の箇所、マルコによる福音書12章13節から17節ではファリサイ派の人々が主イエスに皇帝に対して税金を支払うのは律法に適っているかどうかと質問しました。

当時イスラエルはローマの支配を受けていましたので、税金を納めなければいけません。「納めないで良い。」と主イエスが仰れば、逮捕され、殺されることもありえました。また、「納めなさい。」と言えば、それは神以外の者に従うということですから、「偶像礼拝」ということになり、律法によって罰せられます。どちらを選んでも主イエスは罰せられます。そして、そうなることがわかっていて、ファリサイ派の人々はこの質問をしたのです。

主イエスはどのようにお答えになられたでしょうか?

彼らにデナリオン硬貨を持ってこさせ、そこに皇帝の肖像画が描かれていることを指摘させ、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさいと仰られました。


 また、マルコによる福音書12章18節から27節では復活はないと主張するサドカイ派の人々が主イエスにこのような質問をしました。「七人兄弟の長男にある女性が嫁いだのですが、長男が死に、次にその嫁が次男に嫁ぐも、次男もまた死に、三男、四男、と続きますが、最後7男に嫁ぐもみんな死にました。一体この嫁は復活する時に誰の嫁となるのでしょうか」というものでした。

サドカイ派の人々はこれを理由に復活はないと主張し、復活はあるというファリサイ派の人々はこのサドカイ派の人々に適切な答えをすることが出来ませんでした。

 このサドカイ派の質問に対して主イエスは「聖書も神の力も知らないからそのようなことを言うのだ。復活した死者はめとることも嫁ぐこともない天使のようなものだ。」と仰いました。さらに「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ。」と仰いました。


 ファリサイ派の皇帝への税金に対しての主イエスへの質問、サドカイ派の死者の復活に関する主イエスへの質問はどれも悪意に満ちた、罪と呼ぶべき質問でした。最初の質問は「主イエスをへこましてやろう、恥をかかしてやろう、殺してやろう」という動機に満ちたものです。次の質問は自分たちの主張を認めさせてやろう、自分たちの権威を高めようとする利己的な物でした。それは高ぶりであり、罪であると言わざるを得ません。まさに、自分たちの欲のための質問でした。

 しかし、本日の聖書箇所に出てくる一人の律法学者の質問「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」(マルコによる福音書12章8節)にはこれまでの質問にあったような「悪意」「罪」はなかったのではないでしょうか?

つまり、「真摯な質問」だったのです。

主イエスは第一の掟として、「神は唯一の主であり、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神である主に仕えよ。」というものであり、第二の掟として「隣人を自分のように愛しなさい。」というものであった。

 以前にお話したと思うのですが、律法というとモーセの十戒が有名ですが、それから派生して当時600以上の律法があったということです。とてもじゃないですが、守りきれるものじゃないですね。ですが、主イエスは「この二つにまさる掟はほかにない。」と仰られました。いわば、二つの掟は律法全体を内包していると言ってもいいと考えます。その主イエスのお答えを受けての律法学者の真摯な同意が33節にあります。ですから、主イエスはこの律法学者に対して「あなたは、神の国から遠くない。」と仰られたのではないでしょうか?主イエスとこの律法学者との間には真摯な質疑応答がなされました。これこそが私達を成長させるのです。そしてこれこそが神が私達に望まれていることです。

果たして私達は神に対して真摯でしょうか?

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