「神からの誉れ」
2023年9月3日 聖霊降臨節第15主日
説教題:「神からの誉れ」
聖書 : 旧約聖書 箴言 25章2節-7節(1023㌻)
新約聖書 Ⅱコリントの信徒への手紙 11章7節-15節(337㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
人から誉めてもらうというのは気持ちの良いものです。逆に人に貶(けな)されたり、批判されたりすることは嫌なものです。もちろんこれは昔から私達が持っている感情です。しかし最近のインターネット、ソーシャルメディアの発達によってこの傾向がますます加速していると感じるのは私だけでしょうか?全員が全員そうではないと思いますが、ユーチューバーと呼ばれる人々が自分たちの事を過度に自慢する、また逆に他人を批判する動画をインターネットにアップロードし続けています。また、ソーシャルメディアでも自分を大きく見せるために過激な事を発言したり、そのような人々を非難したりするコメントで溢れている状況です。
もちろん、私はインターネット、ソーシャルメディアを排除することを主張してはいません。これらが普及するまではいわゆる新聞、週刊誌、ラジオ、テレビといったメディアが幅をきかせていました。言論の自由をうたいながら、不都合な事は報道しない、もしくは編集で元々のニュースとは別の事に改変してしまうというありさまでした。某大手芸能事務所の性被害についても、いくつかの告発があり、民事裁判で認められていたにも関わらず、これらのメディアはこの事を報道しませんでした。イギリスのメディアであるBBCが報道し、被害者が外国人記者クラブで被害を訴え、国連の査察団が調査を開始してから、遅まきながら、テレビ局が反省の弁を述べただけです。
そしてインターネット、ソーシャルメディアにはこのような古いメディアが今まで使ってきた忖度(そんたく)や隠し事といった悪しき慣習が行われづらい環境があると思います。しかし、こういういい面があると同時にこの新しいメディアには情報の正確性に問題があると指摘されています。ちょっと難しい言葉を使ってしまいました。つまり、本当にインターネットに出てくる情報が正しいか正しくないか分からないということです。つまり、テレビ、ラジオ、新聞、週刊誌などの情報は一応正しい情報として確認されている(裏がとれている)状態なわけです。
もちろん、それでも間違いがありますし、それによって訴訟に発展する場合もあります。
ですが、インターネットではその情報が正しいか正しくないかというのは古いメディアに比べるとそれほど重要でないということです。ですから、間違った情報で人を批判し、迷惑電話をかけるということが起こるわけです。そして古いメディアの側にいる人間はその事を指摘し、古いメディアがこの新しいメディアに勝っていると主張するわけです。
少しというか、だいぶ話がそれてしまったのですが、先程も言ったように、インターネット、ソーシャルメディアが私達自身が持っている人から褒められたい、自分を攻撃する人もしくは自分の信条に合わない人を攻撃したいという感情を増幅しているように思えてならないのです。
人に誉められたいという感情を持つのは自然な事なのですが、それが行き過ぎると、自慢、高ぶりとなってしまいます。
「私は何々大学出身です。」「私はどこどこに勤めています」「私の年収はこれこれです。」「私はどこどこに一戸建ての家を持っています。」「私はどこどこに別荘を持っています。」「私はこの車(高級外車)を持っています。」
などなど挙げればきりがありません。これらは悪い意味で人によく思われたい、そしてよく扱われたいと思うから出る言葉です。
そうではなく、一度私達の視点を人から神へ移してみてはいかがでしょうか?そうすると別の景色が見えてきます。
神の御心を知ろうとすることが必要です。もちろん、それは難しいことなのですが。なぜなら、神は隠される神であるからです。本日の最初の聖書箇所箴言25章2節の前半部分です。
「ことを隠すのは神の誉れ」とあります。神はご自身の御心をだれかれと明かすことをなさいません。しかし、旧約聖書では限られた人々には明かされました。預言者がそうですね。そして、預言者を通じて民に神の御心が伝えられました。しかし、民は預言者を通じて彼らに伝えられた御言葉を無視しました。結果として彼らはどういうふうになりましたか?
北王国はアッシリアによって滅ぼされました。南王国はバビロニアによって滅ぼされました。彼らは捕囚の憂き目に遭いますが、やがてペルシャによって解放され、戻ることが出来ました。
ここで疑問が湧いてきます。彼らはなぜそのようなひどい目に遭ったのでしょうか?もちろん、彼らが神に従わなかった、アブラハム、イサク、ヤコブという彼らの先祖の神であり、奴隷状態であったエジプトから解放していただいたイスラエルの神に従わなかったからです。他の神々を拝むという偶像礼拝や様々な社会的不正をし続けたからです。ではさらに、質問を続けます。では、なぜ彼らはそのような行為をし続けたのでしょうか? 自分が拝みたい物を拝む。社会的不正によって経済的に自分が潤(うるお)っていれば、国内に社会的弱者が苦しんでいてもそれでいい。口先では神を信じると言い、儀式をするが、本当は神を頼りとせず、他国を当てにし、(政治)、自分たちの財力を当てにする。(経済)
結果はどうだったでしょうか?先程言った通りです。
「ことを極めるのは王の誉れ。天の高さと地の深さ、そして王の心の極め難さ」(箴言25章2節の後半から3節)
本日の最初の聖書箇所は2節から始まっていますが、この25章の小見出しはソロモンの箴言とあり、1節にはこのように書かれています。「これらもまた、ソロモンの箴言である。ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が筆写した。」
ソロモンは以前で述べましたが、ダビデ王の息子で王位を継いだ人物です。神に愛され、神から特別に知恵を賜った人物です。
ですが、彼の人生の後半、彼は神から離れてしまいました。
ですが、彼が書いた箴言は私達に神の御心に適う生き方の示唆を教えてくれます。さて、ユダの王ヒゼキヤとはイスラエル王国とユダ王国に分かれていた時のユダ王国の王で、多くの王が神に逆らった中で、彼は神に立ち返ろうと改革をした人物です。このヒゼキヤ王のもとにいた何人かの書記がソロモンの箴言の言葉を編集した物が今ここで話している箴言ということになります。
さて、それを踏まえた上でこの2節の後半部分から3節までを読んでいくとどうなるでしょうか?
王というのは特別な存在です。本来であれば、神の御心にそった形で政治を行っていかなければいけません。ですから、当然のことながら彼には特別な知恵が与えられてなければいけません。だからこそのこの箇所のこの言い回しになったのでしょう。もちろん、多くの王が神に逆らってきたので、その様な知恵が与えられませんでした。やはり、そのような知恵を得るためにはまず、神に対して従順にしたがい、求める心が必要です。
さて、私達もこの王と同じように知恵というものを持ち得ます。私達は、新約の世界に生きているのですが、主イエス・キリストを受け入れ、信仰と聖霊によって全部とまでは行かないまでも神の御心の一部分を知ることが出来るのです。
ですから、そのために必要なことは先程も言ったように自分の視点を人から神の視点に移すことです。
さらに、私達に求められているのは不正と高ぶりを取り除くことであるということが4節から6節に書かれています。7節はさらにその事を具体的に述べていますね。新約聖書でも確か見たことがあったような気がします。
「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。『婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。』」(ルカによる福音書14章7節から11節)
このように人から一目置かれたい、尊敬されたいという人々がどのように神に扱われるかということがお分かりかと思います。人からの誉れよりも神からの誉れを得るようにしなければなりません。そのためには自分を低くし、視点を人にどう思われたいかという所から神にどう思われたいかという所に移すことです。
本日の第2の聖書箇所です。使徒パウロは無報酬でコリントの信徒に福音を宣べ伝えていたのですが、それが批判となったわけです。主イエスがこの地上で伝道をされていた時に一緒におり、復活された主イエスと会った使徒と呼ばれる人々がいました。その人達と繋がりを持っているという人々はパウロが無報酬で福音を伝えるのはおかしいと吹聴しだしたのです。
無報酬で福音を伝えることはその教会から信頼を得られていないからだと主張しました。だからパウロは使徒ではないというのが彼らの主張です。そしてコリントの教会の指導者が彼らに同調し、パウロを蔑むようになったということです。
それについてのパウロの反論がIIコリントの信徒への手紙11章7節から始まります。
このパウロを批判した人たちは間違った教えをコリントの教会に教え、パウロの権威を崩し、自分たちこそ使徒であると主張し始めたということです。このような偽使徒に対するパウロの反論が12節から15節に書かれています。
ここでも質問です。この偽使徒達の目的はなんでしょうか?
コリントの教会を開拓した使徒パウロの権威を削ぐことです。
ではさらに質問です。彼らはなぜパウロの権威を削ごうとしたのでしょう。自分たちこそが使徒である、自分たちがあのパウロより上である、偉いんだということを示したかったからである。つまり、彼らの福音・伝道の動機が人からの誉れを得たいという欲から出ているということです。これが罪です。
しかも、その教えが異端と呼ばれるものであったということですので、さらに悪いです。パウロの福音・宣教の目的は神への愛であり、神からの誉れを得るためであるのとは大違いです。
パウロは言っています。「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」
(Iコリントの信徒への手紙9章25節)
「朽ちない冠」とは何でしょう?
それこそ神からの誉れではないでしょうか?
「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
(フィリピの信徒への手紙3章14節)
賞とはなんでしょうか?それこそ神からの誉れではないでしょうか?
私達もこのように走ろうではありませんか?
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