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「神による完全な武器」

2022年7月31日 聖霊降臨節第9主日礼拝

説教題:「神による完全な武器」

聖書 : 旧約聖書 サムエル記上 17章41-50節(457㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 ダビデとゴリアトの戦闘の物語は皆さんもよくご存知かと思います。その前にイスラエルの民の歴史的な事をお話させていただきます。イスラエルの民が奴隷の状態であったエジプトから主なる神によって開放されました。そしてその主なる神はその民の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に彼らを導き入れられました。もちろん、その前に彼らの神に対しての不従順があり、彼らは40年間、砂漠で過ごさなければならず、ヨシュアとカレブ以外、次の世代が主なる神が誓われた土地に導き入れられました。これは出エジプト記、申命記などに書かれています。こうしてイスラエルの民は約束の土地に導き入れられましたが、そこに住んでいた異民族と常に戦闘がありました。この事はヨシュア記に書かれています。そしてヨシュアの死後、民は主なる神を忘れ、他の神々に従ったので、主なる神は彼らを度々異民族の支配に委ねられましたが、彼らがその支配に対して神に訴えると、神は士師(リーダー)を彼らに送り、異民族の支配から逃れさせたのです。これは士師記に書いてあります。


 サムエル記上ではイスラエルの民の祭司サムエルの誕生から始まります。エルカナという男に二人の妻ハンナとペニナがいたのですが、ペニナに子供があったが、ハンナには子供がありませんでした。そのせいで、ハンナはペニナに虐められたそうです。エルカナの家族は毎年、家族でシロにある主の家に上り、礼拝していました。そしてハンナが「もし、私に男の子を与えてくれるのであれば、この子を一生、主に捧げます。」と主なる神に祈りました。そうするとハンナの願い通りに男の子が与えられました。この子がサムエルです。ハンナはしばらくこの子と過ごした後、この子を連れ、再びシロの主の家に行き、その当時の祭司であったエリにその子を託しました。つまり、ハンナは主に誓ったようにその子を主に捧げたわけです。祭司エリの子どもたちも祭司であったのですが、彼らは主の前に悪とみなされることをし続け、父であるエリの注意を聞きませんでした。その事で主はエリを咎め、異邦人であるペリシテ人との戦争があった時も、イスラエルの民は負けてしまい、神の箱は奪われてしまいました。やがて神の箱は返され、サムエルが祭司となり、イスラエルを治めました。そしてサムエルが老い、その息子達が祭司となりましたが、彼らもまた祭司エリの息子達のように主の道に歩みませんでした。そのせいで民は王を求めました。これはサムエルにとっては悪ととされ、神の御心でもなかったのですが、神はそれを許し、サウルというベニヤミン族出身の若者が王となり、このサウルはサムエルによって油注がれたのです。サウルが王として即位してからも様々な異民族からの攻撃がありました。


 ずいぶんと長々と出エジプトからサムエル記に書かれているまでのイスラエルの民の歴史をざっとではありますが話してきました。ここで幾つか分かることがあります。まずこの民は主なる神によって選ばれたということです。しかし、彼らは度々その主なる神に逆らい、懲らしめられてきたということです。その懲らしめというのは大体異民族による侵攻、攻撃、そして支配でした。しかし、主なる神は憐れみ深く、彼らを度々救ってきたということです。ですが、そういう状態では絶えず異民族との戦争があり、安定がないということです。せっかく主なる神が約束された土地に住んでいたにもかかわらず、絶えず異民族の侵攻に注意しながら暮らすというのはあまりいい状態ではないです。もちろんこのような事態を招いたのはイスラエルの民の不信仰や祭司エリの息子たちや祭司サムエルの息子たちの悪行、そして神の御心を無視して王を求める民の勝手さのせいなのですが。


 今回の聖書箇所でもサウル王率いるイスラエルの兵はペリシテ軍と戦っています。その中でペリシテ人のゴリアトという巨大な戦士が出てきて、イスラエルの軍に一対一の勝負を挑み、その勝者に負けた軍は従う、つまり奴隷になるという提案をするのです。ですが、そのゴリアトの挑戦に対してイスラエル軍は誰も出てきませんでした。その挑戦に対して応じたのがダビデだったというわけです。


ダビデがこの挑戦に応じた理由はあまり褒め(ほめ)られたものではありませんでした。あるイスラエル兵が「…..彼を討ち取る者があれば、王様は大金を賜るそうだ。しかも、王女をくださり、更にその父の家にはイスラエルにおいて特典を与えてくださるそうだ。」と言いました。そのことをダビデが聞き、王に自分がこのゴリアトに挑戦すると申し出たのです。ですから、報奨目当てということですね。


 王は初め、ダビデには無理だろうと言いました。当然と言えば当然です。ゴリアトは戦士、一方ダビデは羊飼いの少年です。常識的に考えてもダビデがゴリアトに勝つことはあり得ないのです。

しかし、ダビデは羊を飼っている時、襲ってきた獅子や熊を撃退したので大丈夫だと言いました。ここで重要なことを一つ言いますと、ダビデはサウル王にこう言いました。

「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」(サムエル上17章37節)


 自分の力ではなく、主が守ってくださったので、彼は獅子も熊も打ち倒すことが出来たという事をダビデは分かっており、それを公に言い表しているという事なのです。何事も自分の力であると思い、それを公言し始めるところから奢(おごり)りが生じます。それはやがて罪となり、神に逆らうことへと繋(つな)がるのです。


 そのような人物として挙げられるのがこのダビデの対戦相手であるゴリアトです。彼は当然の事ながら、己の力を頼みとして、それを誇示します。本日の聖書箇所サムエル記上の17章43節から44節の彼の言葉に彼の傲慢さ、そして残虐さが滲み出ているではありませんか。対してダビデの発言はどうでしょうか?確かに乱暴さはゴリアトと同じですが、彼の発言には神を頼る彼の姿勢が満ちています。

「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かってくるが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう」(サムエル記上17章45節)

「….今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。………全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。」

(サムエル記上17章46節)

「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」(サムエル記上17章47節)

この後、ダビデはゴリアトを石で撃ち殺しました。


 今、私達は不安な状況に置かれています。連日、マスコミは新型コロナの影響を伝えています。この感染状況は当初の状況よりもさらに悪いということはわかります。そして司会をするアナウンサー、コメンテーター、そして専門家が様々な意見を述べていますが、何か決定的な事を言うわけでもなく、私見をただ言っているだけです。そして私達は彼らの意見に一喜一憂し、狼狽(うろた)えている状況です。何が真実で何が正しいのかということが分かりづらいのです。そういう中で正しいことはこのダビデのように主に頼ることではないでしょうか?常識で言ったらダビデは勝ち目がなかったのです。サウルが自分の鎧をダビデに与えて戦うよう提案しましたが、鎧が大き過ぎて、重すぎて、その鎧を着ずにダビデは戦場に行き、ゴリアトを打ち倒しました。サウルは少しでもダビデが有利になるよう自分の鎧(よろい)を与えたのですが、それは余計なことだったのです。この混乱の時代、自分の剣、槍、投げ槍、鎧、もしくは他人のアドバイスを頼みにこれからも生きていきますか?それとも主を頼みに、キリストを頼みに生きていきますか?決断の時です。

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