「神に受け入れられる祈り」
2021年5月9日 復活節第6主日礼拝
説教題:「神に受け入れられる祈り」
聖書 : 新約聖書 マタイによる福音書6章5-15節(9-10㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
祈りは私達キリスト者がこの地上で信仰生活をしていく上で欠かせない事であります。それは日課である聖書を読む事、礼拝や祈祷会に行く事と同じくらい重要な事です。私達は祈りを通して私達が抱えている不安や願いを神に打ち明けますし、神は私達の不安を取り除いたり、願いを叶えたりもします。また、祈りは神とのコミュニケーションとも言えます。聖書を読んでいくと実に多くの神に認められた人々が神に祈り、神と対話し、神は彼らの願いを叶えたり、そして不安を取り除いたりしてきました。しかし、この祈りが神に受け入れられないこともあると主イエスは言われます。
本日の聖書箇所マタイによる福音書6章5節で主イエスは言われました。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」
神に自分たちが抱えている不安をそして願いを真摯に打ち明けること、神のみ心を思い、神を求めることが祈りになります。しかし、主イエスがここで言われた祈りとはどういうものでしょうか?「人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って」祈ることです。そして主イエスはこのような祈りをする人物を「偽善者」であり、「既に報いを受けている。」と言いました。この人物の祈る目的は自分が抱えている不安や願いを真摯に神に打ち明け、神に解決していただくことでもなく、神の御心を探ることでもなく、神を求めることでもありません。この人物が祈る目的は周りの人間からよく思われたい、名声が欲しいということです。「あの人はいつもよく一生懸命祈っている信心深い素晴らしい人物だ」と周りの人々に思われたいということです。それは本来の祈る目的とは違います。更に言うならば、欲であり、高ぶりを生む原因ともなりうる物で、罪です。このような祈りをする人物を主イエスは「偽善者」と呼びました。外側はいかにも信心深いように見せるが、心の中はドロドロしたもので満ち溢れているからです。
新約聖書では主イエスはファリサイ派の人々とよく対立し、彼らを非難しましたが、彼らを非難した原因の一つが心の中は汚いもので満ち溢れているのに、外側はきれいに見せるという彼らの行為でした。マタイによる福音書23章25節から28節にその事が書かれています。そして、今回の祈りはまさにこれに当たります。そうではなく、主イエスは「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」と言われました。「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」という表現はかなり具体的ですが、祈るときは目立つように祈るのではなく、むしろ隠れてしなさいということです。もちろん、これは実際にこのようにしなさいということではないと考えます。なぜなら、聖書で神に認められた人々もオープンに祈っています。例えば、ソロモン王は神の神殿を建築した時、多くのイスラエルの会衆の前で祈られました。その祈りは列王記上8章15節から53節と少し長いのですが、神は受入れ、こう言われました。「わたしはあなたが建てたこの神殿を聖別し、そこにわたしの名をとこしえに置く。わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる。」と言われました。(列王記上9章3節) また主イエスご自身もオープンに祈られたことが何度もあります。私達もまた礼拝で隠れて祈っているわけではありません。主イエスがおっしゃられていることは祈るときの私達の心のありようではないでしょうか?私達の心が人からの名声を得たいという欲に満たされ祈るのであればその祈りは神に受入れられないということです。
さらに、主イエスは7節でこのように言われました。「異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」もちろん、これも祈る時何度も繰り返してはならないということではありません。主イエスが話された喩えにはやもめが人を人とも思わない裁判官に訴え続けた話(ルカによる福音書18章1節から8節)や探し求め、門をたたくことを推奨する話(マタイによる福音書7章7節から8節)がありました。カナンの女は彼女の娘を悪霊から癒やしてもらおうとして何度も主イエスにお願いしました。(マタイによる福音書15章21節から28節)何度も同じことを神に祈ること自体、間違いではないということです。では何が問題でしょうか?それはやはり心の状態ではないでしょうか。主イエスが喩えで挙げたやもめ、もしくは神を探し求め、門を叩く人、カナンの女には信仰がありました。彼らの祈りは無意味に要求を繰り返すような祈りではありませんでした。ですので、主イエスが本日の聖書箇所7節で言われている「異邦人のようにくどくどと述べる」そして「言葉数が多い」祈りとは無意味に同じ言葉を繰り返すような長く、こちらの要求ばかりが溢れるような祈りではないでしょうか?預言者エリヤがバアルの預言者達と対決したことがあります。エリヤとバアルの預言者達はそれぞれの神(エリヤは主、他の預言者はバアル)を呼ばわり、用意された2頭の雌牛(一頭を主のため、もう一頭をバアルのため)を火で焼いた神を本当の神とするという対決でした。バアルの預言者達は四百五十人もおり、バアルに叫び続けたがバアルは答えず、犠牲の雌牛は焼かれませんでした。彼らの祈りを見てみましょう。「朝から真昼までバアルの名を呼び、『バアルよ、我々に答えてください』と祈った。(中略)彼らは築いた祭壇の周りを跳び回った。」(列王記上18章26節)「彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げ物をささげる時刻になった。しかし、声もなく答える者もなく、何の兆候もなかった。」(列王記上18章28節から29節)このバアルの預言者の祈りの滑稽さには呆れてしまいます。しかし、自分の体を傷つける程ではないにしても主イエスが言われた「異邦人のようにくどくどと述べる」祈りとはバアルの預言者達のような祈りではないのでしょうか?信仰心もなくただ繰り言を述べるだけの祈りです。私達はこのような祈りをしないよう注意しなければいけません。もちろん、8節で主イエスが「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」と言われたからといって、祈らなくて良いということではないのです。やはり、信仰心を持ち、真摯な態度で祈らなければいけません。
そして主イエスは9節から13節で理想の祈りを教えます。これは主の祈りと呼ばれ、多くの教会で祈られ、私達も本日祈りました。この主の祈りは「天におられるわたしたちの父よ、」という父なる神への呼びかけから始まります。そして、「御名が崇められますように。」と続きます。この祈りは天におられる父なる神への賛美から始まります。自分の願いから始まっていないのです。そして、「御国が来ますように」と続きます。主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」と同じマタイによる福音書6章33節で言われています。ここでもまず自分たちの直接の必要な事の為に祈ってはいません。「御国の到来」「神の国の到来」を祈っているのです。そして、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」です。天において御心が行われているのは当然なのですが、地の上はアダムとエバが神に逆らってから罪が満ち溢れています。ですので、この罪が満ち溢れている世界が神の御心によって正しい方向に変えられるのを願うのは神の御心を知り、その御心に沿った生き方を求めるキリスト者にとって当然ではないでしょうか。
次にようやく、自分たちの事を祈ります。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」です。
現実に私達が生きていくためには食べ物が必要です。ですからこの「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」という祈りはごくごく当然なことであると受け止めることができます。しかし、これは単にそれだけではないように思えるのです。キーワードは「今日」です。キリスト者は日々神に養われているという意識を持たなければいけません。ちょうど、エジプトを脱出し、砂漠に住んでいたユダヤ人が神からマナで養われた時もそのような思いを抱いたかもしれません。神に日々養われているという考えを持つことによって神に日々頼るという意識を持てるのではないでしょうか?次に主の祈りでは自分たちの「罪の赦し」が上がってきます。「罪の赦し」を神に願うことはキリスト者にとって必要なことです。罪は洗い清めなければなりません。そして、罪を赦し、洗い清めるのは主イエスです。しかし、わたしたちもまたしなければいけない事があります。それがこの「自分に負い目のある人を赦す」という事です。この事なしに自分の罪だけ赦されようとするのは虫が良いことであり、神の御心にかなわないということです。この事を主イエスが負債を負った家来の喩え話で説明しています。同じマタイによる福音書18章23節から35節までです。そして、この主の祈りの最後に「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」という言葉が来ます。先程はもう既に犯してしまった罪の赦しでしたが、今回は罪を犯すようにさせる誘惑に遭わせないで欲しいという願いと悪い者からの救いです。誘惑は誰にでも来ます。主イエスご自身もサタンからの誘惑に遭われましたので、この祈りは難しいかもしれませんが、だからこそ私達はこの事を祈るのではないでしょうか?
こうして主の祈りを見てみると、あらためてこの主イエスが教えられた祈りが素晴らしいものであり、祈りの本質をついていると言うことがわかります。しかし、私達はこの主の祈り以外してはいけないということではないのです。具体的な願いや、心の不安を神の前に置く事は必要であり、それを神は願っておられます。しかし、肝心な事はその時の私達の心の状態です。私達が人からよく思われたいというような思いや、なにか自分の欲望に満たされ、神の御心を思わず、信仰を持たず、ただむなしい言葉を繰り返し、祈り続けるのであれば、その祈りは神に届かず、かえって神の怒りを引き起こすかもしれません。私達の心の状態を精査しつつ、何が神に受入れられる祈りかを考えつつ今週も歩んでいきましょう。
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