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「神に属する者」

  • urawa-church
  • 2024年9月1日
  • 読了時間: 9分

2024年8月25日 聖霊降臨節第15主日

説教題:「神に属する者」

聖書 : Ⅰヨハネの手紙 5章10節-21節(446㌻)​​​​

説教者:伊豆 聖牧師


 最近の社会を見てみますとあまり良い方向に進んでいるように思えないというのは考え過ぎもしくは悲観的過ぎでしょうか?ですがニュースを見てもあまり良いニュースはないように思えてしまいます。相変わらずロシアとウクライナの戦争、イスラエルとハマスとの戦争は続いていて一般市民が犠牲になっているという現状があります。そしていまだこの二つの戦争は終結する兆しが見えません。世界には国連という組織があるのですが、大国がこの戦争に直接的にもしくは間接的に関与していると全くと言っていいほど実際に戦争を止める抑止力にならないということがわかってきています。

 国内を見てみますと政治と金の問題があります。これはずっと前から行われてきたということですが、最近では国会議員が政治パーティで得たお金を政治資金収支報告書に記載せずに裏金となってしまっていたということです。これで逮捕された議員もいたのですが、秘書や会計担当者だけが逮捕されたということもありました。またある国会議員は労働実態がない秘書をあるように見せかけ、国からその分の給料を得ていた疑いを持たれています。その責任を取って所属していた党を離脱する意向を表明しました。


 この前行われた衆議院東京15区の補欠選挙では立候補したある政党が他の陣営の選挙カーを追い回したり、他の立候補者の選挙演説時にやじを飛ばすといった選挙妨害をしました。そればかりでなく、彼らはそれらの妨害行為を撮影し、ユーチューブに公開したということです。彼らは逮捕されました。東京都知事選では立候補した人とは別人のポスターを貼る、似たデザインのポスターを一つの掲示板に複数貼る、選挙にはそぐわない不適切なデザインのポスターを貼るといった行為があり、それらを表現の自由として正当化した候補者がおりました。

 ここ最近のいいニュースというのは何でしょう?オリンピックでしょうか?確かに世界トップレベルのアスリートたちが一堂に会し競い合うのは見応えがあり、ワクワクするものでした。ですがそこでも選手に対してインターネットで誹謗中傷が多数あったということです。このインターネットの誹謗中傷は最近問題になってきています。

 色々と話してきましたが、こういうことを見るとやはりこの世界に対してあまり楽観的に考えられないのかもしれません。キリスト教的な考えではこの世は悪であるということです。こう言ってしまうと身も蓋もないですし、一般の人たちに「私たちに喧嘩を売っているのか」とか言われそうなのですが。

 私達が住んでいる日本社会に目を向けてみれば、私が今述べたような問題はあるが、悪であると言っていいほど酷いものではないという考えもあるでしょう。

 ですが主イエスは山上の説教でこのように仰いました。

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

(マタイによる福音書5章13節から16節)

 すこし長い聖書箇所の引用ですが、なぜ主イエスがこのように仰ったのでしょうか?もし、この世が悪くはなく、不正がなく、平和に満ち溢れていて、光り輝いていれば、人々が塩でなくても、光でなくてもいいわけです。

 ですがこうおっしゃる方もいるかも知れませんね。「いや主イエスが生きておられたときには今ほど人々の権利が保証されていたわけでないので酷い時代だったのです。だから主イエスはこのように仰ったんです。今は時代が進んで、個人の人権も保証されているじゃないですか。先生が仰ったように多少の問題はありますが、受け入れていきましょう。」

 確かに先程私が申し上げた問題はそれ自体は多少なことなのかもしれませんが、それが時間がたつと大きな問題となり取り返しのつかないことになるのではないでしょうか。私達がそれほど悪もしくは極悪と断定しなくていいと言って知らず知らずにそれらを受け入れていくことがもしかするとこの世の悪なのかもしれません。そしてキリスト者はそういったものに対抗するよう求められていると思います。パウロはこのように言っています。        

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

(ローマの信徒への手紙12章2節)

 だいぶ長くなってしまいましたが、この事を踏まえて本日の聖書箇所に入っていきたいと思います。

 「神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。」(Iヨハネの手紙5章10節)


 ここでヨハネは神の子を信じる者と神の子を信じない者との明確な区別をしています。これは重要です。私達は主イエス・キリストが十字架の上で私達の罪を贖ってくださった救い主、神の子であるということを信じて、受け入れて洗礼を受け、聖餐にあずかるのです。それを無しにすることはできません。

 11節ではさらに私達が信じている証について述べられています。「神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということ」ですね。

 13節では10節と同じく神の子を信じる者とそうでない者の区別が御子と結ばれている者と結ばれていない者というふうに表されています。

 神の子を信じる者とは誰でしょうか?それは私たちキリスト者です。そして私たちにはその証があり永遠の命が神から与えられているのです。

 ヨハネは続けます。13節では主イエスを信じている信徒たちに彼らが永遠の命を得ているのだということを悟らせるためにこの手紙を送ったということが13節に書かれています。

 さらに言うならば14節から15節では神の御心に適った願い事であればそれは何であれ受け入れられるということです。「神の御心にかなった」というのが難しいのです。普通なにも制限がなくて願い事はなんでも叶えてくれるといわれれば飛び上がって喜び、願ってしまうかもしれません。すくなくとも私はそうです。ですが自分の願いが神の御心に適っているかどうかとはどうわかるのでしょうか?それは祈り、信仰をもって、聖霊の導きによって判断するしかないのです。難しいことですが。ですが少なくとも自分の利己的な判断ではないということは断言できます。

 ヤコブは言っています。「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」(ヤコブの手紙4章2節から3節)このようなものではないのです。

 本日の聖書箇所に戻ります。14節から15節に関しては私たちが願えば、それが神の御心に適っているのであれば与えられるというものでした。いわば私たちにとっては良いことです。16節から17節に関しては私たちにとって悪いこと、すなわち罪のことについてヨハネは語っています。罪には死に至る罪と死に至らない罪があり、死に至らない罪に関してはその罪を犯している人のために祈りなさいと言っています。これは執り成しの祈りです。

 主イエスはご自身を十字架につける人々のためにも祈りました。

 そして死に至る罪について神に願うように、つまり執り成しの祈りをするようにとは言わないとヨハネは述べています。赦されない罪というのもあるのです。どんな罪でしょうか?

 第一に聖霊に逆らう罪です。「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(マルコによる福音書3章29節)

 これはマルコによる福音書20章20節から30節を時間がある時にお読みいただければと思うのですが、主イエスが悪霊を追い出しているのを見てエルサレムから下ってきた律法学者たちが「あの男はベルゼブルにとりつかれていて、この悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ったことに主イエスが答えたということです。つまり主イエスが神の霊、聖霊の力によって悪霊を追い出しているのに主イエスが悪霊の頭(ベルゼブル)によって追い出していると律法学者たちが言ったということです。聖霊を悪霊の頭と呼んだのです。まさに聖霊を冒涜する行為ですね。

 第二の死に至る罪は十字架の救いを知ったにも関わらず、自分の意思によって救いを捨てることです。

 「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。」(ヘブライ人への手紙6章4節から6節)


 第三はキリストを否定する反キリストです。

 「子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。」

(Iヨハネの手紙2章18節)

 私達はこれら死に至る罪を犯さないようにしなければなりません。もちろん死に至らない罪も犯さないようにしなければなりませんが、まだここには執り成しの祈りと悔い改めの機会があります。

 色々と言ってきましたが、私達は何者かということです。神に属する者なのか?それともこの世に属する者なのか?ということです。ヨハネは19節でこのように言っています。「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」(Iヨハネの手紙5章19節)

 これは何もヨハネが生きていた時代だから、主イエスがこの地上で生きておられた時代だからというわけではなく、私達が生きているこの現代もまた悪い時代だということです。悪い者の支配下にあるということです。悪い者とはだれでしょうか?私がこの説教の前半で現代の社会に対して批判をしてきました。その考えでいくとインターネットで誹謗中傷をしている人たち、裏金を作っている議員達、その人達に忖度をしている税務署や検察達ということになるかと思います。もちろん、この人たちは罪を犯しているということです。人を傷つけ、自分の私腹をこやし、権力におもねっているということです。ですが私達が対しなければいけないのは目に見えない存在、彼らに罪を犯させている存在です。それは以前にも説教で話したのですが、パウロがエフェソの信徒への手紙で書いていた存在です。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソの信徒への手紙6章12節)

 だからこそ、私達は決めなければいけません。私達は世に属する者なのか?それとも神に属する者なのか?そして神に属する者であるならば、真の神、永遠の命である主イエスに信頼するのです。そして偶像を避けるのです。それは私達を主イエスと神から引き離すものだからです。

 
 
 

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