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「神に従うか人に従うか」

2024年6月2日 聖霊降臨節第3主日 

説教題:「神に従うか人に従うか」

聖書 : 使徒言行録 4章14節-21節(219㌻)​​​

説教者:伊豆 聖牧師


 聖霊によって力を得たペトロとヨハネが足の不自由な人を癒やし、彼は歩けるようになった。そしてその後ペトロが説教をしたということは先週申し上げました。今回はその後の話になります。本日の聖書箇所の前の部分、使徒言行録4章1節から4節です。ペトロとヨハネが主イエスのご復活について民衆に説教をしていたのですが、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいてきてペトロとヨハネを捕らえて翌日まで牢にいれたと書かれています。どういうことでしょうか?一般民衆は彼らが語る福音を受け入れたのですが、それに反対する人々もいたのです。4節には「しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。」と書かれていますが、2節3節には「二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。」と書かれているからです。


 ここに福音を受け入れる人と福音を受け入れない人の対立があるのです。主イエスがこの地上で伝道をしていた時からこの対立がありました。主イエスの奇跡と御教を多くの人々、とりわけ社会的に恵まれていない人々は受け入れました。しかし社会的地位のある人々、宗教的に地位のある人々は全員とは言いませんが、主イエスの奇跡と御教、そして主イエス自身を受け入れませんでした。なぜでしょうか?主イエスが彼らの尊重する律法、考えを否定したからです。律法は大切なものです。ですが、彼らは自分たちの解釈で多くの律法から派生する法律を作りました。そして人々にそれらの法律を守らせていたのです。それを破るということは彼らのプライドを傷つけました。さらに言うならば彼らはそれらの法律を作ることで彼らの権威と権力を作り上げたのです。主イエスの行為はそれらを揺るがしました。だからこそ、彼らは主イエスを敵対視し、最終的に十字架に掛けて殺したのです。ここに罪があります。神にのみ、主イエスにのみ栄光を帰さなければいけないのに、自分達自身に栄光を帰していたのです。神に栄光を帰しているふりをして、神に仕えるふりをして。だからこそ主イエスを十字架にかけて殺したのです。


 この対立は使徒言行録の所でも続いています。彼らに取ってみれば自分達の権威を否定し、攻撃していた主イエスをやっと殺したのに、その主イエスが復活したなんていう話をペトロとヨハネがして、多くの人々がそれを受け入れているのですから、面白くないわけです。だからこそ彼らは「いらだった」わけです。だからこそ彼らはペトロとヨハネを牢に入れたわけです。

 翌日彼らは牢から出されてエルサレムにある最高法院に引き立てられました。そこには議員、長老、律法学者、大祭司一族がいたということです。裁判所、国会議事堂で裁判官や国会議員に囲まれているといった状態です。つまりこの世の権威を持つ人間たちに取り囲まれている状態ですね。そしてこのようなことを尋問されたのです。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」(使徒言行録4章7節)


 権威についての質問です。これは主イエスがこの地上で伝道をなさっていた時にも度々ファリサイ派の人々、律法学者達が主イエスに浴びせた質問です。これは質問という形式をとっていますが、実際はそうではないのです。彼らは主イエスに、そしてペトロとヨハネにこう言っているのです。

「地上の権威をもっている私達の言うことを聞け。」彼らの傲慢さが滲み出ています。彼らのプライド、権威意識が垣間見えます。この質問に対してペトロはペトロ自身の力ではなく、聖霊に満たされてこれに答えました。「イエス・キリストの名によるものです。」(使徒言行録4章10節)ペトロの全部の答えは8節後半から12節です。


 ペトロは聖霊に満たされて答えたのですが、これは主イエスがこの地上で伝道をなさっていたときに仰ったことです。いわば預言の成就です。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」(ルカによる福音書12章11節から12節)

 ペトロの答えの内容について言いたいことがあります。    

まず初めに9節の「今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば」とあります。人が何か悪いこと、犯罪行為を行った疑いがある場合、警察官がその行為を行った人を逮捕したり、取り調べたりします。ですが、善い行いをしたのにその人を逮捕したり、取り調べたりしません。つまりここでペトロは善い行いをした私たちを取り調べるという理不尽な事を行っているんですよと彼らに言っているのです。

 さらにペトロは10節で「あなたがたが十字架につけて殺し」と言っています。これは彼らの罪を明らかにしています。しかし続く「神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」という言葉で主イエスは復活し、この奇跡を起こしたんだということを証ししているのです。        

12節では「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」とペトロは答えています。「わたしたちが救われるべき名」ということはどういうことでしょうか?これは主イエスがお与えになる救いがこの足の不自由な男のいやしにとどまらないということです。私達の罪の贖い、救いもまた主イエスによってなされるということです。そして「人間には与えられていないのです。」とはあなた達が持っている地上の権威によって人は救われないし、主イエスがお持ちになっている権威のほうが勝っているということなのです。

 普通このように権力を持っている人間がその権威を否定されれば怒り出すのですが、彼らは出来ませんでした。それはペトロとヨハネが普通の人にも関わらず、権力を持った自分達に対して大胆な態度を取っていたからです。さらに言えば、この病人であった人が癒やされるという事実がペトロの言葉を証明していたからです。ここからが本日の聖書箇所です。しかしこの権力者たちは彼らが福音を宣べ伝えないよう脅しをかけます。自分達の権威が崩れるのを防ぎたい、自分達が主イエスを殺したという事実をなかったことにしたいという利己的な理由からです。神に逆らい、自分達の腹に仕えていたからです。15節から18節に詳細が書かれています。

 この議員たちの脅しにペトロとヨハネは屈しませんでした。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。」(19節)と彼らは言いました。私達は今日本に住んでいますが、表立っての宗教弾圧のようなことはありません。ですが私達が自分達の信仰を言い表せないプレッシャーのようなものは様々な形で存在します。そして言い表せないようにさせて私達の信仰をしぼませるようにするかもしれません。そうすることで私達がキリスト者であることを曖昧にしてしまうかもしれません。

 聖霊の導きによって行動出来るよう祈りましょう。

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